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2023/03/24

十干・十二支と還暦

 今年、2023年は癸卯(みずのとう)。

干支は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」
十干というのは、「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」。

今年は【癸卯】。2024年はひとつづつ横にずれるので【甲辰】。2025年は【乙巳】。

読み方に注意しようね。

「こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き」だけど

暦では

甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)です。

ここでいう「え」や「と」は「兄(陽)」「弟(陰)」にわかれておりすべてを司る「木・火・土・金・水」に関わっているらしい。。

ちなみに「干支」は12個・「十干」は10個。だから順列組み合わせでは120種類だけれど

「子甲」⇒「子丙」⇒「子甲」⇒「子戊」⇒「子庚」⇒「子壬」で・・・「子甲」に戻ります。このサイクルが60年なので還暦というわけ。。

ということで私・・祝!還暦!です。

2023/03/12

一周忌法要

 12日(日)一周忌法要が滞りなく終わりました。
惜しむらくは今まで私の祖父母の代から続いていました庵主さんが、ご入院中ということ。そこで急遽おなじ曹洞宗のご住職さんに来ていただきました。このご住職はお葬式、諸七日法要の際にもお世話になったご住職さんです。
参列者に曹洞宗の教法をお渡しくださり唱和するスタイル。やっぱ修証義は身が引き締まる思いがします。

・・生を明らめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり唯一大事因縁と究尽すべし・・

大好きな母の死は人生観を大きく変えました。
死は避けられないものだけに今を精一杯生きることに尽きるのでしょう。

12日夜19時頃から久しぶりに滋賀県まで往復。往復150kmくらいなので2時間半程度のドライブになりましたが、運転中、色々と考える事が出来ました。私が背負うもの、家族に背負わせてしまっているもの、「生きる事と死ぬこと」の境目っていったい何なんだろうって。いつ亡くなるのかわからないだけに人は日々を精一杯生きるんだろうなって、禅問答のような回答しか出てきませんでした。





2023/02/23

BP祭

 おそらく大半の方はご存知ない言葉でしょう。

英国人のベーデン・パウエル卿が提唱し世界に広がったボーイスカウトの創始者で、2月22日は彼の誕生日を世界中の人々がお祝いをします。このお祭りを「BP祭」と呼びます。

私の母はボーイスカウト活動に関わっていた関係で私もボーイスカウト活動にはたくさんの思い出があります。

年長者は年少者を導くために手本となることが求められると同時に一体となってスカウト活動の理念と誓を立てます。

私達が日々を過ごす中では様々な事柄が起こります。もちろん想定外のこともあることでしょう。そのためには私達は精神的に肉体的にもベストなコンディションを保つことが必要です。「そなえよつねに」・・ボーイスカウトの一番大切な理念です。

私の大好きな歌「3つの誓い」をよく母と歌いました。

♪三つのちかい 名誉かけて ボーイスカウト おきて守り 人のために 備えよ常に
 ♪強き体 かたき心 ボーイスカウト 築きたてて この世のため 備えよ常に

他にも「掟」や「モットー」など細かく決まって年長者は慕われ、年少者を導きます。

決して宗教でもなく、自衛組織でもありません。

それでいて、団体生活を基調として互いの思いやりの心と努力、友情を育むことができる素晴らしい団体だとおもいます。私が所属していた団はいまはもうありません。それでも当時の思い出だけは生き生きと心に残っています。

これからも色んなことがあることでしょう。肉体的にも精神的にも当時のままではありませんしベストコンディションではないけれど「そなえよつねに」を心がけたいものです。

2023/02/05

万博記念公園 太陽の塔の思い出

 万博記念公園のシンボル「太陽の塔の内部見学」に行ってまいりました。
1970年「人類の進歩と調和」をテーマに千里丘陵を切り開き開催された「万国博覧会」の当時の記憶は、ホントにかすかに残っているくらい。
 ホログラムでキラキラした迷子バッチをつけてもらったことや、会場でお財布を拾い届けた事、そして当時は珍しかった多くの外国人さんにドキドキした事です。それでも太陽の塔の内部の様々なモニュメントをはじめ、鮮明に思い出したこともあり、大変楽しい時を過ごすことができました。



当時の印象では「けったいな形で変な顔やなぁ」と誰もが思ってことでしょう、またその造形もなんとも奇妙な姿でしたが、五十数年が経過した今ではその造形の見事さや計算しつくされた姿は立派なランドマークで、堂々とそびえる姿が愛おしくさえも感じられました。
 正面に2つの顔、裏面に1つの顔、そして地下には黄金の顔がありました。
見学会では地下から最上部まで階段で進みながら見学していくのですが、私は先日来の左膝の不調からエレベーターを利用。中間フロアを経て最上階へ。
最上階は左右に大きく手を広げている地点となります。
生命の樹の下部はアメーバーをはじめとした原生生物、そして上部へ行くにしたがって人類に近づいていく様子を表しています。


立寄った当時の鉄鋼館が「EXPO'70パビリオン」となって、当時の様々な情報を展示してくださっています。その巨大な敷地を埋め尽くすような各国のパビリオンの様子をはじめ様々なモニュメント像におもわず当時の記憶が戻ります。
いまでも自宅には数多くのスタンプ帳やバッジにチケット、そしてなぜかわかりませんが、レンガ色をしたサウジアラビアの砂漠の砂が大切に保管されています。


当時使用されていた「千里阪急百貨店」の案内パネルがありました。たしか万博の開幕とあわせてOPENしたお店でその印象的なデザインからパビリオンに間違えられたという話を聞いたことがあります。



オープン当時は地下+3階建てでしたが、1982年頃に増床し6階(売り場はB1+1F~5F)となりました。色々とご縁があった千里阪急はとても思い出深いお店です。
久しぶりに店内に入りましたがすっかり様変わりしていました。隣にある千里セルシーは老朽化で立ち入り禁止状態。今後どのような開発がされるのか見守っていきたいものです。
WXPO’70の入場料は大人800円(満23歳以上の者)・青年割引入場券600円(満15歳以上23歳未満の者)・小人400円(満4歳以上15歳未満の者)という区分以外に、特別割引入場券があり大人300円・青年200円・小人100円だったようです。その定義は「身体障碍者手帳」「戦傷病者手帳」「被爆者健康手帳」を所持する者および身障者手帳の日本国有鉄道旅客運賃減額欄第1種を所持する者の介護者1人は年齢により当該料金を適用。
第二次世界大戦が終わり、日本国土の都市部をはじめ様々な地域ががれきと化して僅か25年しか経過していないこの時代によく開催できたものです。この頃はまだ、阿倍野の近鉄デパートと国鉄天王寺をつなぐ陸橋に、ボロボロの軍服姿の方がアコーディオンを弾いていたり筵の上に座っているかたが見られた頃。そして100年前の1870年は明治新政府はまだまだドタバタ騒ぎの真っ最中で廃藩置県の1年前。稲田騒動も勃発した年。
日本は何度も占領されかけた経緯があります。

日本は第二次世界大戦後、アメリカの統治下におかれましたが1951年のサンフランシスコ平和条約締結をもって日本にその主権が戻りましたが、アメリカの思惑通り日本をアジア方面の最重要基地とした位置づける代償として米軍基地/沖縄の統治を続けるままに、1950年に朝鮮戦争が勃発、いわばアメリカとソ連の代理戦争で日本は警察予備隊を発足し部分的に参戦しこれが自衛隊につながっていく・・。
本当にわずかな期間で日本が大躍進をとげEXPO’70が開催できましたが、様々な思惑があったことでしょう。さて2025年4月13日から10月13日まで開催の大阪万博ではどのような思惑があるのでしょうね。万博記念公園のように「素晴らしい遺産」となることを願ってやみません。

2023/01/20

あれから10カ月・・。

 大好きな母が亡くなってから10ヶ月が経ちました。

朝夕欠かすことなく「おはよー」「行ってくるねー」「ただいまー」「おやすみー」って声をかけても写真の中の母は満面の笑みで笑ってるだけ。

お休みの日は出来るだけ、一心寺さんと四天王寺さんへ参拝し母を偲ぶけれど、それでも心に空いた穴は埋まりそうにありません。

去年の今頃は特養からの連絡で差し入れのお菓子やおやつも色々と制限され始めた頃。
面会もコロナのせいでなかなか融通が利かずに寂しい思いをさせてしまって・・本当にごめんなさい。

誤嚥性肺炎で21年10月にも入院した経緯がある母。
1年前の22年1月21日の23時前に、救急車で運び込まれた時、なんとも嫌な予感がしたけれど無事2月24日に退院。寒さの和らいだ日に、お花をもって病院まで駆けつけたとき、すごく喜んでくれて一緒に「Vサイン」して写真を撮ったよね。

そしておよそ1カ月後に母は永眠。。本当に寂しくてたまらないよ。






2023/01/15

新・幕末史 完全版(1/3 BS放送)を見て 3

「大政奉還」1867年、徳川幕府が朝廷に政権を返上、この裏ではイギリスとロシアが覇権争いで大きく関わっている。小栗忠順日記では国際外交上にも関わるために政権を天皇へ返上と記されている。

幕府とロシアで国境線をめぐり争っている最中に、ロシアは樺太へ実効支配のために多量の兵士を送り混んでくる。海軍元帥コンスタンチン・ニコラエヴィチは英国が侵略してくると進言することによりサハリン全土をロシア領にするべく動く出す。
これに対し英国パークスも対馬事件があるためにロシアに乗り込まれることを防ごうとする。まさに大国同士の互いの不信感が幕府の存亡に影響を与えたことになる。
この中で強兵を進める小栗忠順は兵器強化をもとにフランスに武器を発注し支援を求めている。
まさに英国、ロシア、フランスの三つ巴。そこで英国パークスは幕府の資金源を止めるために英国銀行から日本への融資を停止することを決定、反幕府勢力をおさえきれずに大政奉還に進んでいく。
1868年、徳川慶喜とパークスは会談を行う、英国側の記録では日本の混乱を収拾できるのか?という質問を投げかけており慶喜は自分の身をもっても収めなければならない。と返答。これにより小栗忠順は幕府の要職を解かれ農村で塾を開くが、わずか40歳で新政府軍に捉えられ処刑。

「鳥羽・伏見の戦い」1年5ヶ月続いた戦争の起点。その裏では各国外交官が熾烈な争いをしていた。
旧幕府軍が発射した砲弾は四斤山砲(フランス製)から発射。2月16日にパークスの要請で各国の代表が集まり会談を実施(英国、フランス、アメリカ、プロイセン、オランダ、イタリア)。この時点では長州、薩摩は国際的には反乱勢力。。
 国際法の取り決めに関してパークスは局外中立を宣言することを宣言、これにより幕府、反幕府に対して武器供与などはできなくなる。3日間の会談の結果、パークスは「フランスが徳川を支援すれば新政府は外国人を保護しなくなり大混乱が生じる」と発言。幕府が開港地である函館、横浜、兵庫、長崎の外国人を保護していたが戊辰戦争により長崎、兵庫は新政府軍が実効支配している。これらにより自国民の保護を優先する局外中立宣言を1868年2月に発した。そして5月に江戸城無血開城となる。

「奥羽越列藩同盟」1868年。19世紀後半の指導者オットー・フォン・ビスマルク首相は近隣市諸国を制圧、鉄血政策を推し進め、東アジアへの進行を目論む。
プロイセンが独自に戊辰戦争のキーとなる、会津藩、庄内藩を守るために結成された「奥羽越列藩同盟」を予想している。新潟の激戦区の朝日山の戦いではエンフィールド銃(南北戦争で活躍)の銃弾が発見された、本来は軍事物資は表立って軍事援助はできないはず。そこで独自で動いていた各国武器商人は新潟を開港、武器商人が新潟に集結する。特にプロイセンの武器承認は暗躍し、武器を供給する。。これはアメリカ南北戦争で使用されたスペンサー銃(連射式)エンフィールド銃などでした。なかでも河井継之助はガトリング砲を購入。(南北戦争で初めて実用化)。

「幻の植民地化計画」1868年 
プロイセンの旧幕府軍への接近には大いなる狙いがあった。駐日プロイセン代理公使のマックス・フォン・ブラントはビスマルクに対し、蝦夷の土地は北ドイツとにており150万人のドイツ移民を送ることができると進言。ブラントの通訳を務めるハインリッヒ・シュネルは松平容保と会談。列藩同盟に接近する。シュネル銃を米沢藩主へ最新兵器として贈呈。そしてシュネルは列藩同盟の軍事参謀になるまで信用を勝ち取り、会津藩、庄内藩は蝦夷の土地を担保にシュネルに資金援助を依頼、これに応じれば蝦夷の土地を99年間担保として手に入る事となる。
しかしビスマルクは蝦夷の植民地化には実は消極的で経済的なメリットを疑うだけではなく他の国々との軋轢を懸念、英国からの支援が求められることを前提に交渉が開始。

駐日イギリス外交官アーネスト・サトウが西郷隆盛と接触し新潟港の海上封鎖を提案。これにより旧幕府軍は武器の供給が停止することとなる。しかも海上封鎖は国際法上問題がなく、批判を受けることがないと進言。1868年9月、新潟港を封鎖、上陸作戦を決行、占拠する。容保公に援軍を連れて戻ってくることを約束したシュネルは戻ってくることはありませんでした。11月6日会津藩降伏。これによりプロイセンの蝦夷地植民地化計画は中断となりました。

「箱館戦争」1868年

旧幕府軍開陽丸 旧幕臣榎本武揚は五稜郭を占拠、新政府軍と対峙。
英国パークスはロシアが榎本武揚との約束により蝦夷に南下してくるのでは?危機感を覚える。内戦を終わらせることを希望するパークスは、横浜港に停留している幕府がアメリカから購入するはずであったストーンウォール号に目をつけた。諸外国の中立宣言により引き渡しできない状態でした。機能は開陽丸を遥かに上回る機能の軍艦。1869年1月18日に再び開かれたパークス主催の諸外国外交官の会議では、局外中立を終了し新政府軍に与するべきと進言するもプロイセンは榎本武揚率いる函館により内戦終了は時期尚早と受け入れない。
徳川将軍が降伏した以上、榎本武揚は逆賊、反乱分子にすぎないと説き伏せ、局外中立は撤廃される事となった。ストーンウォール号は新政府軍に引き渡される事となった。6月には新政府軍の艦隊により函館は鎮圧される。6月27日榎本武揚降伏。「我らは薩長に負けたのではない、英国に負けたのだ」と談。

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日本が動乱の中、国外からどう見えていたのか?何を考えていたのか?のわずか一部分かもしれませんがまだまだ興味は付きません。明治政府になり様々な外国の支援を得て鉄道や製糸場、日本国憲法など諸外国の影響を受けて進んできた日本。

戊辰戦争後や第二次世界大戦後など本当に植民地化されなかったのは奇跡なのでしょう。
先人の働きに感謝です。

※録画を見ながらの記述に付き誤字などはどうぞご容赦。







2023/01/09

新・幕末史 完全版(1/3 BS放送)を見て 2

 1866年「改税約書」経済交渉の舞台裏。海外への金の流出を防ぐために幕末に発行された金貨、万延二分金の成分は金の成分は28%、銀が71%。この政策は当時の勘定奉行小栗忠順により実施。英国は各植民地でも自国のポンドを流通させることで国際取引で使用されることを狙っていました。※植民地用のポンド貨幣には流通国名が刻まれている。
ハリー・パークスが外交官として来日。狙いは大英帝国の貿易圏内に日本を組みこむこと。
そこで関税の引き下げを交渉。熾烈な交渉が小栗忠順と行われるが下関戦争の賠償金割引を持ち出されることで結果引き下げに同意することとなる。
日本の産業を守るためには、日本も産業革命を促す必要がある。そのためにはフランスとのパイプを強固にするためにフランス公使レオン・ロッシュと会談をする。特に造船技術を学びたいとの内容。フランス側も英国に追いつくために快諾。
その結果、横須賀造船所ができることとなった。

1866年「幕長戦争」(四境戦争)
幕府と長州が戦争となった、このときに長州を支えたのば最新鋭のミニエーライフル銃。このライフル銃は英国から購入。※下関戦争での敵国から武器を購入している。
アーネストサトウは、パークスに対し「薩摩藩は長州藩に接近している」という情報をリーク、裏では長州と薩摩は繋がっていることを伝え、そのままこの流れが薩長同盟となる。

英国のジャーディン・マセソン商会は、幕府側、長州側のいずれにも販売していたが、なんと幕府から受け取った代金4000ドルのうち3000ドルが薩摩藩へ融資されていた。※現在の価値で40億円。薩摩藩はこの資金で武器を購入し力を蓄える。この武器の運搬に活躍したのが坂本龍馬。これにより英国は実質的には、幕府VS反幕府の戦いを煽ることととなるが、どの勢力が日本を統治するかではなく、最優先すべきは英国の利益と割り切った考え。

幕府軍は10万人以上の兵力で戦いに望むも、なんと下関の戦いでは英国の商船に流れ弾があった場合どうするのか?と申し入れ、手が出せない幕府に対し長州軍奇兵隊が下関を制圧。
旧型銃は先込めに対しミニエー銃は元込め、しかもライフリングがされている。
およそ4ヶ月続いた戦争は幕府が敗北となった。

つづく

新・幕末史 完全版(1/3 BS放送)を見て 1

 年明けより、様々な番組の録画を順に鑑賞。なかでもこの「新・幕末史 完全版」は興味深くその内容をまとめてみました。

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日本史の中でも時代の大きな転換期の一つの「幕末」。海外でもさまざまな「幕末」に関する覇権争いの根拠が発見されています。

この「幕末」を「対馬事件」「下関戦争」「改税約書」「幕長戦争」「大政奉還」「鳥羽・伏見の戦い」「奥羽越列藩同盟」「幻の植民地計画」「函館戦争」のキーワードで、どのように列強国が関わったのか?を読み解く内容です。

1853年の黒船の来航は偶然ではなく必然。海外で勃発した戦場からの武器の流入により日本が戦場となります。
1858年に修好通商条により、「ロシア・アメリカ・フランス・イギリス・オランダ」に函館、横浜、下田、長崎の港を開くこととなりました。しかし条約締結は反対派勢力である「攘夷派」を生み出すこととなりました。治安維持のための「新選組」などの働きがあったが国内政治は混乱の一途。

当時の19世紀の海外では、イギリス(大英帝国)とロシアの超大国が覇権争い。イギリスの産業革命による蒸気機関が「ゲームチェンジャー」。海外進出を加速していきます。

ロシア帝国は世界最強陸軍を誇りさらなる不凍港拡大を求め黒海獲得を乗り出します。
クリミア半島で英国と一戦を交えますが敗北(クリミア戦争)、その後、極東進出へ路線変更。日本を足がかりに中国に影響を与える方針へ転換。この舞台となったのが「幕末日本」ということになります。

1861年、「対馬事件」が起こります。2月ロシア海軍の巨大軍艦が対馬付近に到達。幕臣の小栗忠順が交渉に当たりました。この交渉に英国が介入し、対馬が戦場となる危機に直面。
首都のサンクトペテルブルグでは皇帝「アレキサンドル二世」と海軍元帥「コンスタンチン・ニコラエヴィチ」が軍事会議により対馬の占拠を目論む。
最近の現地調査で対馬には精密な測量をへて港や観測所、軍事施設が設置、実効支配を狙っていました。

小栗忠順は外交交渉に長けており即時退去を求めて交渉にあたりますが「対馬はイギリスが狙っている以上、ロシアの保護下に置くことが得策」と譲りません。
もちろんイギリスでは「強硬論」が優勢、日本は植民地同様に重要で、これは1840年のアヘン戦争で中国の権益を獲得したために、間近のロシア進出を防ぐことは必須。
日本はロシアにつくか英国につくか・・。小栗忠順の案は対馬を幕府の直轄領とした上で開港を進める。これで様々な国が介入することで手出しができない案だが幕府は却下。幕府は英国の軍艦を対馬へ迎え入れロシアと一触即発!ロシアは退去を選択したが、英国は今後日本への干渉を強めることとなりました。

1864年下関戦争ではイギリス軍率いる17隻の連合軍VS長州軍と戦い、わずか2時間あまりで長州は惨敗。日本の大砲は届きませんが、英国軍が搭載していたアームストロング砲は沖合から長州軍への砲撃を可能としていました。
アームストロング砲にはライフリング(砲身の中に螺旋状の溝)が刻まれたことで砲弾の飛距離を3kmへ伸ばし、精度を高める工夫がされています。

実は英国は日本との全面戦争を想定していたことが近年になって発覚!戦争経験の豊富な英国は①下関から大阪までの瀬戸内海回路を交通封鎖し海上では伊予灘、和歌山沖、下関沖に軍艦を配備することだった。そして②御所のある京都を制圧するために、海上から大阪城を砲撃し無力化。そして③江戸城への攻撃!江戸湾に建造された幕府の砲台を撃破し12,000人が進軍する。建物は木造であり炎による攻撃にくわえ、江戸城は長距離砲で攻撃する作戦でした。この原因は開国後の英国に対する待遇の悪化が要因で、攘夷派の抵抗があったためです。

その機会を狙う英国に対し好都合の事件、1863年外国船砲撃事件勃発。長州藩が外国商船を攻撃。
結果は幕府が巨額の賠償金を支払うことで一旦回避したものの、それでも英国は京都進軍の機会を狙っていました。

当時、幕府はオランダと友好関係を築いており諜報活動も行われており、その中で列強の機密情報も収集、英国の企てを掴んでいました。
軍艦奉行勝海舟は列強との戦いを回避するためにオランダ領事館で、「幕府が攘夷派を抑えこむことを約束」するとともに海軍力の増強のために、最新鋭のクルップ砲を6門搭載した「開陽丸」を購入する。クルップ砲の射程距離は4Km。小栗忠順は大砲の国産化を計画、富国強兵案が進められた。この情報を英国が把握!全面戦争になった場合英国は日本を手中におさめることができるが、そのための戦費を考えると当時の英国国会での承認は得られないとの判断で中止の流れとなった。同時に一橋慶喜さんは通商条約に反対する天皇の説得にあたりました。

つづく