フランス風懐石料理中華風: 2011 10/29 堺探訪

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2011 10/29 堺探訪

一坂先生より堺市博物館資料の特別展「自由都市の軌跡」の入場券を頂戴しましたので見てまいりました。
またせっかく堺に行くのですから効率的に回るために色々とプランを検討し、淀屋橋スタートで下記の順序で回りました。

■大阪西区 土佐稲荷神社
現在の大阪西区にある大きな神社。元々は土佐藩邸にありましたので、土佐藩はよっぽ広大な敷地であったのか。さて、堺事件が勃発した翌日、土佐藩邸へ帰らされた一行に届いた通知はフランス側よりは当事者を含む20人を切腹させることを含むを5つの条件。さて誰が腹を切るか・・・・この藩邸でくじ引きで決め、翌日、堺にある妙国寺へと1000人
近い大行列で向かったそうです。


昨年の龍馬伝で一躍有名になりました岩崎弥太郎さんの家があったのもこの場所です。

【土佐稲荷神社を含むエントリー】
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/07/2011715.html


[堺事件を含むエントリー]
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/09/2010-926.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/11/2010-1120.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/07/2011715.html

■堺 天誅組上陸の地 堺事件勃発の地

[天誅組を含むエントリー]
http://sweet-mikan.blogspot.com/2009/12/20091219.html

幕府の天領の奈良五條へ向かう一行は天保山から舟に乗りこの地に上陸。一路河内長野を目指して進みました。
孝明天皇の攘夷熱にうまく取り入り国事周旋を働いた長州藩。そのポストを利用し都合よく立ち回ればよかったものの、エスカレートした行動に孝明天皇もさすがに不安になったご様子。
そんな中に出た次の勅は「大和行幸の詔」「攘夷親征の群議」。これでは幕府のメンツが丸つぶれ。
と同時に一足早く制圧を試みた中山忠光卿(明治天皇の叔父さん)を筆頭とした天誅組。
孝明天皇が不安を漏らした相手が悪かった。
中川宮朝彦親王が京都守護職会津藩。聞き付けた薩摩藩とが結託し、目に余る長州藩と奸臣久家を御所からの閉めだし作戦が決行された。
そうとは知らない天誅組は、河内長野の観心寺にお祀りしてある楠公さん参詣をすでに終えて、五條の町で大量殺戮を起こしてしまっている。この五條の町は、幕府の直轄領であり天領、しかも交通の要所であるのに警備が手薄ということで目を付けられてしまい静かな町が一夜にして大変なことになりました。
ところが閉め出し作戦である八月十八日の政変により孤立した天誅組は、天皇が幕府に駆逐せよとの命令を受けた、津藩、紀州藩等に鷲家て壊滅させられました。
えらいこっちゃと長州藩。言い訳を書いた「奉勅始末」も見事に受け取り拒否。
こうなったらと、いっそ武力で京都へ乗り込むか?なんとか長州藩のイメージを良くしたいとおもった矢先に大阪南御堂前で不可解な事件が起こる。これも実は長州藩が世論を長州贔屓にするための仕業。
ところがせっかくのイメージアップをしたものの不幸にして池田屋事件がおこり怒りは頂点に達する。
御所凝華堂を目指し三方から進軍した長州は蛤御門で敗退。
まさにふんだりけったり。

■千利休邸宅跡
まさにラッキー!
普段は柵の外からしか見る事ができないはずが、今日はイベントで目の前まで!
じっくり拝見させていただけました。







■堺市博物館
日本ではおもいっきり戦国時代。
そんな中で東南アジア諸国と貿易を行っていた日本には様々な物資は輸入され、その起点としての堺の地はNHKの[黄金の日々]でも描かれたようにいろんな物が輸入されています。実際に町の様々なところから当時の中国、インドネシア、タイ、ビルマなどの陶磁器が発見されています。
それより驚くべきはヨーロッパやアフリカ、アジアの地形をほぼ忠実に書いている様々な地図の存在です。衛星写真などあるわけもなく、実際に目視で描いたとしか考えられません。
堺の発展の原点についてお勉強させていただきました。

同時に開催されていたのが[大和川付け替えに関する資料]
おもわず小躍りしてじっくーり拝見。当時の中甚兵衛さんのご苦労がしのばれます。

■妙国寺
今日の堺は観光ボランティアさんがいっぱい。
講談ネタの[門屋舟の由来]では、本能寺の変が起こった時に徳川家康はこの妙国寺でお茶を嗜んでいたそう。
何度目の妙国寺になるかわかりませんが、やっぱり堺の歴史上を語るには外せないSPOT。





森鴎外さんの小説は青空文庫より読んでいただけます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html




森鴎外さんは陸軍軍医であり、官僚。なのでどうしても日本人贔屓でその文章には誇張が感じられます。
実際の検証を行い様々な角度から調べ上げた大岡 昇平さんの堺港攘夷始末 (中公文庫):ではまったく違うイメージで書かれておりリアリティを感じます。

慶応4年(1868年)に発生した事件で様々な節目で慰霊祭が行われているよう。そのたびに碑が建立されている。ここで気になるのは
切腹した現場の妙国寺さんと埋葬された向井側になり宝珠院さんとの関係。
書物では、本来は妙国寺に埋葬するはずが皇室勅願寺に罪人を埋葬することが憚られたために向かい側の宝珠院さんへ埋葬したそうです。実際はどうだったのでしょう。

慶応4年、そしてすぐに明治元年となり人々は新しい時代を感じていたのでしょうか?

~森鴎外 堺事件より~

妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。
箕浦を頭に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶が切石の上に伏せてある。
これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。
堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶を「生運様」と云って参詣するものが迹を絶たない。

宝珠院が堺の観光地となることで当然ながら妙国寺側はハテナな気持ちが芽生えてくる。そこで記念イヤーには法要を盛大に行う事が必要だったのかもしれません。
境内には50年・70年・100年など節目におこなわれた法要の碑がありました。
と同時に宝珠院さん側には下記のような碑が・・。



道しるべの横に立つ石碑は
【殉難 戊辰 土佐十一烈士墓所 】(大正六年五月弔魂会建立)
と記されております。 事件より50年後です。









【史跡名勝天然記念物保存法に依り昭和13年8月文部大臣指定】
【史跡土佐十一烈士墓】と書かれています。
事件よりちょうど70年となります。


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