旅順港閉塞作戦が目的を果たさなかったため、ヨーロッパから向かってくるロシアの「バルチック艦隊」が到着する前に旅順港に立てこもるロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)を無力化し、岸壁を守護する旅順要塞を攻略する必要がありました。旅順要塞は最新鋭のコンクリート陣地や地雷、有刺鉄線、機関銃陣地を備えた世界屈指の永久要塞でした。
◆1904年8月 旅順攻囲戦の開始(第1次・第2次総攻撃)
・第1次総攻撃(1904年8月19日〜24日)
8月19日に日本軍は要塞の防衛機構を軽視、正面からの歩兵による一斉突撃を試みましたが ロシア軍の機関銃射撃と激しい砲撃の前に、日本兵は遮蔽物のない斜面で次々と倒れました。一部の陣地(盤竜山砲台など)の奪取には成功したものの、要塞の中枢部には届かず わずか数日の戦闘で日本軍は約1万5,000名(当時の第三軍の約3割)におよぶ甚大な死傷者を出しました。
・第2次総攻撃(1904年10月26日〜30日)
第1次の失敗を受け、日本軍は戦術を正攻法(地道に穴を掘り、陣地を削りながら前進する掘壕進撃)へ変更。また、内地から28cm榴弾砲などの重砲を運搬・据え付けて砲撃戦を補強し10月26日に第2次総攻撃を開始。本城子堡塁や203高地などを標的として攻撃を行いましたが大部分で失敗。要塞の一部拠点は破壊・確保したものの、ロシア軍の粘り強い抗戦と重火器の前に阻まれ、約4,000名の死傷者を出して総攻撃は途中で断念されました。
バルチック艦隊の来航を恐れる海軍や参謀本部は、観測拠点となる「203高地」の攻略を主攻とするよう要求、 しかし、満洲軍総司令部や第三軍(乃木希典司令官)は要塞正面の「望台」攻略を優先する立場を崩さず、上層部の意見対立が攻撃計画に混乱をもたらすことになりました。
『坂の上の雲』では秋山真之が「203高地だけでええんじゃ」と何度も口にしていましたが、やはり多くの同胞の死を無駄にしないためにという気持ちがあったのか、今までの戦法にこだわったのでしょう。
11月26日、日本軍は第三回総攻撃を開始、第1、第9、第11の各師団が松寿山・二龍山・東鶏冠山の各堡塁へ突撃しましたが、ロシア軍の猛烈な集中砲火や逆襲により壊滅的な打撃を受ける結果となりました。 同日夜には特別予備隊「白襷隊」が編成、夜更けに進軍したものの、鉄条網や地雷に阻まれて突破には失敗しました。
27日未明、攻撃挫折を受けた乃木はついに攻略目標を203高地へ変更することを決断しました。 敵味方を消耗戦に引き込み、ロシア軍の兵員枯渇を狙う方針へ転換しました。 同日夕方より28センチ榴弾砲(大阪砲兵工廠生産で、爆発時に弾丸の破片が広範囲に飛散するよう設計され、最終的には18門が投入されて延べ16,940発を発射)の事前射撃とともに第1師団が突撃を開始しました。激しい攻防が繰り広げられましたが、ロシア軍の反撃により占領と奪還が繰り返され、戦況は難航、 29日には予備の第7師団が投入されましたが、ロシア軍の強固な抵抗により死傷者が相次ぎました。
12月1日、満洲軍総参謀長の児玉源太郎大将が第三軍に到着しました。児玉の指導のもと、重砲隊の陣地変更が行われました。 28センチ榴弾砲による一昼夜15分ごとの連続砲撃、小規模突撃隊の連続投入、敵増援部隊への砲撃などが実施されました。 12月4日からの再攻撃により、5日午前には西南堡塁を制圧し、同日22時には203高地を完全に占領するに至りました。
203高地の占領後、設置された観測所からの正確な砲撃により、旅順港内にいたロシア太平洋艦隊の主要艦艇は次々と撃破・自沈し、ほぼ全滅となりました。
勢いに乗る日本軍は要塞東北面への攻撃を続行しました。 12月中旬から爆薬を用いた坑道爆破を実施し、東鶏冠山北堡塁、二竜山堡塁、松樹山堡塁を相次いで攻略しました。 明治38(1905)年1月1日には重要拠点である望台を占領しました。
主要拠点を失い予備兵力も枯渇したロシア軍のステッセル司令官は、同日午後に降伏を申し出ました。 1月5日、水師営にて乃木とステッセルの会見が行われ、約5ヶ月に及ぶ旅順要塞攻防戦は終結となりました。 これにより自由を得た第三軍は、奉天会戦へと合流することになりました。
◆1905年1月、旅順要塞のロシア軍司令官ステッセルは降伏し、旅順攻囲戦は終結。
◆1905年(明治38年)1月:旅順開城 日本陸軍がロシアの要塞・旅順を攻略。
◆1905年(明治38年)3月:奉天会戦
陸上戦における最大規模の決戦。日本軍が勝利を収めたが双方ともに莫大な損害を出し陸軍物資・人命は限界に達す。
※乃木将軍とステッセル将軍のその互いに称えあったときの会見が【尋常小学校読本唱歌 明治43年7月】に掲載。作詞は佐佐木信綱。明治39年6月に【尋常小学校読本】のために文部省の嘱によって作られました。ほかにも有名な「夏は来ぬ」を作詞。三重県鈴鹿市石薬師町に佐佐木信綱記念館あり。
◆1905年(明治38年)5月:日本海海戦
東郷平八郎率いる日本海軍の連合艦隊がバルチック艦隊をほぼ壊滅。
◆1905年(明治38年)9月:ポーツマス条約(講和条約)締結
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により講和成立。
日本は韓国における優先権、南樺太の割譲、旅順・大連の租借権、東清鉄道の一部(南満州鉄道)などを獲得。しかし一方で「賠償金」が得られなかったため、日本国内では不満が高まり日比谷焼打ち事件などが発生することとなりました。
◆日露戦争(1904〜1905年)当時、ロシアは皇帝ニコライ2世によるツァーリ専制政治のもと、強権的な支配を行っていました。
この状況下で、日本陸軍の明石元二郎大佐は中立国のスウェーデン等を拠点に、ロシアの反体制派や独立運動家へ巨額の資金援助を実施。1904年にはジュネーヴでレーニンと会談します。当初レーニンは「祖国への裏切りだ」と拒否したものの、明石の「タタール人である君が、支配者であるロマノフ王朝を倒すために日本の力を借りて何が裏切りか」という説得に応じ、ロシア国内への潜入を果たしました。
明石はさらに内務大臣プレーヴェの暗殺や血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱などにも関与。これらの工作は後のロシア革命成功の布石となり、国内の混乱を決定づけました。その戦果はドイツ皇帝から「満州の日本軍20万人に匹敵する」と絶賛され、後にレーニンも「明石大佐には感謝状を出したいほどだ」と語ったと伝えられています。
◆ショスタコービッチ 交響曲第11番 ト短調『1905年』作品103
1957年に作曲された標題交響曲で「血の日曜日事件」をテーマに、今まで彼自身何度も抹殺されかけた経験からその体制を痛烈に憎んでいたのでしょうか。この交響曲には多くの民衆が宮殿広場へ直訴に行き、そして多くの軍隊から射殺される様子が音楽で表現されています。
◆乃木希典 攻略後に読んだ歌
爾霊山の道はいかにも険しいが、登り切ることができないなどということがあろうか
(日本語):にれいさん けんなれども あに のぼりがたからんや
(漢音):じ れい さん けん き なん はん
男子が手にする真の功名というものは、大きな困難や苦難を乗り越えてこそ成し遂げられるものだ。
(日本語):だんしの こうみょう かんに よくするを きす
(漢音):だん し こう めい き こく かん
激しい砲撃の鉄の破片と兵士たちの血潮が山全体を覆い尽くし、山の形が変わってしまうほどであった。
(日本語):てっけつ やまを おおって さんけい あらたまる
(漢音):てつ けつ ふく さん さん けい かい
今や人々はみな、この山を「あなたの霊が宿る山(爾霊山)」として等しく仰ぎ見るのだ。
(日本語):ばんじん ひとしく あおぐ にれいさん
(漢音):ばん じん せい こう じ れい さん
◆その後
乃木希典は明治天皇が崩御された直後に妻の静子さんとともにご自宅で殉死されました。希典は日本刀で十文字の割腹後に軍刀で首を斬り絶命。静子さんは懐剣で胸を突き亡くなられました。原因は日露戦争で多くの若者を死なせたことに対する自責の念、明治天皇への忠誠心、そして武士道精神に基づく行動ではなかったかと言われています。
その墓地は東京青山墓地にありますが、明治天皇が眠られている明治天皇陵(伏見桃山陵)の麓に乃木神社が創建、 伏見桃山陵と京都御所の方角に背を向けないよう、本殿は北向きに建てられています。
◆吉田松陰先生とのつながり
乃木希典は15歳の時に下関から萩までの70Kmを歩き玉木文之進に教えを乞うています。玉木文之進は山鹿流兵学を学び松下村塾を開いた方でもあり、乃木家と玉木家、吉田家、杉家は超複雑ですが親戚関係のようです。
しかし玉木文之進は、1876年(明治9年)、山口県士族の前原一誠らが起こした不平士族の反乱(萩の乱)の中に松下村塾関係者が関与していたことに対する責任を取り松下村塾塾頭として切腹、その後松下村塾は閉鎖になりました。
◆時期を同じくして1904年(明治37年)9月に、雑誌『明星』の9月号(明治37年9月発行)に与謝野晶子の詩が掲載され大反響を得ました。

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