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2011/07/23

2011 7/23 新長田のグルメ

神戸の新長田に所用で行ってまいりました。
ここは1995年の阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けた地域、その為、町全体が全て整備され非常に美しい町という印象です。
マンガ家の横山光輝氏のご出身ということで「鉄人28号」の等身大のモニュメントが公園に設置、氏の漫画三国志を切り口にそれぞれの町内を紹介していました。







さて、この新長田の名物といえば「ぼっかけ」(牛すじとコンニャクを甘辛く煮込んだもの)。これを様々なお料理に合わせています。
で・・まずはじめに行ったのは「マルヨネ」のぼっかけコロッケ♪色んな情報誌に取り上げられています。
<タベログ>
<グルメウォーカー神戸>
目の前で揚げてくだって熱々を頂戴しました。今日の外気の32度だけの性じゃなく、もうホクホク!
ジャガイモとぼっかけは相性抜群なんです。嬉しい価格!1コ80円也♪

 
で、この勢いで昼食に相応しい2件目<さんきゅ卯>に向かいます。
カウンターが8席に4人用の座敷のみの小さいお店ですがひっきりなしにお客さんが訪れます。

<タベログ>
<神戸お勧めグルメ情報>
とサンキュ卯スペシャルとソバメシを頂戴しました。


広島風お好み焼きの上にふっわふわに焼かれた卵とおもいっきり青ネギのかかったお好み焼き。






 
意外とスパイシーなソバメシ。一味とソースが決め手なんだとおもう。しっかりとした濃い味です。






お腹もふくれたので今日の本当の目的の「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映会場へ向かいます。
で、感動したその状態で・・夕食を食べる為に街を散策。

居酒屋発見!色々と飲み食いした勢いでなぜかもんじゃ焼きをオーダー。
お店で食べた事がないので初体験!

「すみません・・・初めてなので焼き方がわからへんねんけど・・・」と正直に申し出ると
説明書を持ってきてくださいましたwwで・・その通りにつくってみた。。
 写真はもちろん途中状態^^
体重増加を忘れて一日!よく食べました(笑)

2011 7/23 ミツバチの羽音と地球の回転

2011 7/23 原子力発電とエネルギー問題を考える映画のつどい


新長田は阪神大震災の際に甚大な被害のあった場所、そのため町全体がきっちりと区画整理された非常に人工的な街でした。駅からすぐ近くの公園には懐かしい「鉄人28号」が実物大で置かれていました。


定刻30分前に開場入り。
当日券を買った方は、この用紙に署名してください!と言われムカついてました。
私は建設反対ですが、映画と署名は別物。なのであっさりと拒否させていただき着座しました。
会場には80人くらい、手作り感のある運営側なので前述のやり取りは何かの手違いがあったのだろうと思うようにしました。
資料の中には【MBS 種まきジャーナル】でお馴染みの、京都大学・原子炉実験所の小出 裕章さんが3/20に山口県柳井市のアクティブ柳井で講演された際の資料がつけられていました。
原発の構造や危険である理由、そしてどうすれば良いのか・・など・・すっごくよくわかります。

<柳井での講演会(参考)>



<映画:ミツバチの羽音と地球の回転 オフィシャルサイト

舞台は山口県上関町の祝島。数年前にUターンしてきた山戸孝さんを追ったドキュメント。祝島は人口わずか500人に満たない小さな島、その対岸、真向かいにあるにある長島の田ノ浦に中国電力が原子力発電所を建設しようとしています。
建設のためには地元の認可が必要なわけですが、祝島の住人の9割が建設反対、しかし上関町としては6割が賛成しているのが現状。

当然、原発が建設されると、地元の基幹事業である漁業に影響がでるから強固に反対運動を繰り広げています。また、祝島は1000年以上前から続く伝統的な祭り「神舞」は4年に一度行われますが、この建設騒動で2回続けて中止になっています。

と・・・ここまでは私の認知の範囲だったわけですが実際はそれだけではありませんでした。

この祝島周辺は豊後水道の黒潮がが周防灘に流れ込み瀬戸内海に豊かな資源を運んでいます。
その為世界的にも稀有な水鳥を初めとするすばらしい生態系が守られています。

原発は、海水を取り入れて炉心を冷却し海水を放出します。その際に現在の海水より7度高い海水を1秒間に190トンを放出。そしてその海水は次亜塩素酸ソーダという化学薬品を含んでいるとのこと。これにより世界遺産に匹敵するこの自然を破壊することは間違いありません。
また、東日本大震災のような災害が起こった場合、九州北部や四国・・そして瀬戸内海全体に、まで影響を及ぼすかもしれないのです。

上関役場での議会に詰め寄るシーン、中国電力との激しいやりとり、また中央省庁へ署名を届けた後の説明会等、自分達の生活を守るために懸命に訴えかけるそのシーンに胸を熱くしました。デモや座り込みをする住民の裏をかくように規約を破り、半ば騙すようにして海にブイを打ち込んだ中国電力。
「年々住民が減っている」「1次産業だけでは限界がある」等、中国電力側が拡声器を使ってデモ行動に対し説得しているが、山戸孝さんを初め沢山の方々が様々な取り組みで新しい産業を興そうとしている。中国電力に発言で「絶対に海は壊れません」という発言はあまりにもふざけすぎ。モノを知らなさすぎ。

そして舞台はスエーデンのオーバートーネオ市、ヨッテポリ市、ストックホルムの事例を紹介。脱原発を国民投票で決定し風力発電や地域暖房、太陽熱、波力発電、酪農の超合理化と電力の自由化により、原子力や石油で作られた汚い電気を選ばずにキレイな電気を使うことを選択できる

最後にまた舞台は祝島に戻り、山戸孝さんらが海辺でひじきをはじめとする海産物を採っている。自分達の為に半農半漁の産業以外にも、枇杷、ひじき、もずく等のフードやエコツーリズム等、新しい産業を興す事が将来に繋がり、自分の子供や孫達にキレイな海を残すことが義務だと締めくくられ、135分の映画が終わり、満場の拍手が起こりました。

<長島の自然を守る会代表の高島美登里さんの講演>がありました。
高島さんは、2年前より上関に移り住み団体を主宰、長島の自然保護の見地から原発建設反対を強く訴えかけておられます。
海草類では日本海側にしか生息しないといわれている「スギモク」が、貝類ではナガシマツボ、ヤシマイシンなどの貴重種が、また人類の進化の研究を大きく発展させるナメクジウオという背骨の無い脊椎動物等が。哺乳類ではスナメリが自生、世界的に絶滅寸前のカンムリウミスズメが住んでいることがわかりました。

そして最後にはなんと、今回の映画を監督さんの鎌仲ひとみさんが駆けつけてこられてお話をくださいました。
イラク戦争で使用された劣化ウラン弾は原発から作られた化学兵器で、その影響で子供達が被爆して亡くなっている現実を見てこられました。
中国電力へ取材の申し入れをするも「激しい拒否・・」。六ヶ所村の原子力担当者は「確かに放射能を拡散しているが大丈夫です!大気に放出することで薄まりますから!」という大胆発言!

私達が電力会社を選ぶことが出来ないことを利用して、原発が無いと電気が止まるがごとく洗脳する各電力会社。各国は環境保全に取り組んでいるのに日本はどうなっているんだろう。本当に原発が無いと私達の生活は本当に麻痺してしまうのでしょうか?

本当に考えさせられた一日でした。

2011/07/18

2011 7/18 第13回 柳谷観音・泰聖寺 講談会

2011年 7月18日(月・祝日) 
第13回 柳谷観音・泰聖寺 講談会
黄昏亭もみじ 水戸黄門漫遊記より牛盗人
旭堂南斗 難波戦記より後藤の入城
旭堂南舟 太平記より楠木と泣き男
旭堂南左衛門 王将・坂田三吉 有本隆作
【会場・お問合せ】
大阪市天王寺区下寺町2-4-10
柳谷観音・泰聖寺 ※無料駐車場あり  
TEL:06-6779-9196








安居神社さんへ9月に九度山で開催される九度山講談会のご案内をするために早めに到着。
久しぶりに中島宮司さんと色々とお話をさせていただきました。
実は、真田ファンなおかげで色んなトコで中島宮司さんとお会いするご縁があり、昨年車を買い換えた際に、中島宮司さんにお祓いをしていただいたこともありました。
で、さっそく上町大地のアップダウンを乗り越え、秦聖寺の近くまで帰ってくると、ちょうど九度山町から
お見えになられてた住民クラブのご代表の阪井様とバッタリ!遠路、本当にお越し頂きありがとうございました。


前講:水戸黄門漫遊記より牛盗人

狂言の演目にもなっている牛盗人。狂言では鳥羽離宮が舞台。
講談では福島県が舞台。この地の大名は寺田佐分次。村の者達に取り調べの様子を公開してるということで
取調べのある日は村人がぞろぞろと代官所へ。
さて、この村に住む「喜平」と年老いた母。それに「喜平」の息子の「喜太郎」。
すこしボケの入った年老いた母が言う。「26日は無くなった父の法事だから用意をするように」。
家にすこしの蓄えがあれば出来るのだが「水も飲めないくらいの水飲み百姓の暮らし」の「喜平」。
つい出来心で、代官所の牛小屋から1匹を盗んでしまう。
町角に高札がでる。「犯人を知っているものには褒美を取らせる」。なんと息子の「喜太郎」が代官所に
「父が犯人です」と名乗り出てしまう。
その真意は・・。
なかなかの人情話し。



旭堂南斗/難波戦より後藤の入場

マクラは卑弥呼寄席での停電騒ぎを取り上げられました。
堺の地で軍学指南を行う後藤又兵衛。その様子を関しする徳川方。
豊臣方から接触があり大坂城へ入場する話しが届けられる。さっそく
密かに部下達へ連絡を取るが武具を売りらった者たちが多数。なんとか急いで支度金を作らねばならない。
堺の色町「ちもりの大和屋」の芸子「おらん」をでっち上げ金を作るか・・・。



旭堂南舟/ 太平記より楠木と泣き男

マクラは岸和田での近況話しと扇風機の話し。またこの秋から始まる朝ドラ「カーネーション」の話題。
戦が近いということで家臣を採用するために一芸に秀でたものばかりを集めてきた。
色々な者が集まってきた。
木登りの上手い者や水練の名人、大飯くらいの者・・そしてなんと人を怒らせたり、また泣かせたりする名人(杉本村の佐平)が表れた。ここにいる全員を泣かせられなかったら首を切られてもかまわないというとんでもない賭けを申し出ることに。。


旭堂南左衛門/阪田三吉 有本隆作

9月30日のNHKの番組 「芸能百科繚乱」にご出演予定。放送時間は22時。見逃さない様。
さて、今回は新作、ネタおろし。

「坂田さん、あなたの負けです」という意表を突いた出だしで始まるこの坂田三吉。
有名な和光寺での勝負で千日手で負けてしまった事がきっかけで闘志を燃やすこととなった三吉と、妻のコユウと家族愛をテーマにした講談となりました。

講談会が終わったあと、恒例のお茶会。様々なお話が飛び出しホントに楽しいひとときでした。
また、この坂田三吉はまだ完成されたものではないとのこと、講談会が終わったあとに様々な意見や質問が出ていました。おそらく今後も推考を重ねてネタが磨かれて行くのでしょう。

写真は講談が終わったあとのお茶会にて。

2011/07/16

2011 7/16 教科書に書かれなかった幕末史 実録・北の零年

明治新政府となって急務は北海道の開拓でした。それは豊富な資源がある上に、ロシアの圧力を感じていたから。
そこで明治2年7月にフォーレスケプロンら外国人を雇い、開拓使が創設され北海道の開拓に乗り出した。開拓使は明治15年2月まで続き様々な産業を民間に払い下げ。これでまた一悶着がおこる。
さて、明治政府は開拓を応募と強制的に参加させる藩をピックアップ。合計24藩の参加となった。実際はどこの藩でも、開拓どころではない為に各藩はやるき無し・・。

さて、映画となった『北の零年』のモデルとなった『稲田家』について記載してみる。
稲田家は徳島藩蜂須賀家の家老の家。淡路の洲本が本拠地。蜂須賀家の家来5000人の内、半分がこの稲田家の家来であり、蜂須賀家からすると陪臣。尊王派。徳島藩は佐幕派・・様々な確執がおこってくる。
大名ではないので参勤交代も無く、名産の藍玉や米等の売買で資金力が豊富。様々な活躍で文久3年に天皇より杯を頂戴する栄誉を与えられる。また、明治3年には錦の御旗の番をする役もあたえられ、西宮警備役など、その信用の厚さが伺える。

さて『岩根静一 北海道移住回顧録』を参照すると色々な事実がわかる。
版籍奉還が行われ、陪臣は卒族、武士は士族となった。もちろん稲田家の家来もすべて卒族となり、しかも蜂須賀家へ直属となるように命令が下った。これは
稲田家の繁栄に対するやっかみがあったわけで、実際に明治維新で最前線で戦ってきた者が卒族となることに当然不満がでる。
そこで稲田家は洲本を藩として独立したい旨を申し出たが、却下。徳島藩は歩み寄りを見せたものの、結果ぶち切れ!
明治3年5/13に洲本城下の稲田藩を襲い多数の死者を出す事件がおこってしまった。(庚午騒動(事変):『お登勢』船山馨著)さて、この事件を重く見た政府は、稲田家は徳島藩では無く、兵庫県に属することを指示。そして北海道開拓の静内を与えるということを名目として旅立つこととなった。




映画では、ここから始まる。

明治4年4/13に第一弾が洲本を出発。5/1に静内へ到着。
元々静内には幕府の会所があったので開拓の足がかりと決めたわけだが、温厚な洲本育ちの武士達が始めてみた北海道の風景は「山の頂に見える白いものは雪ではなく雲と勘違い」その気候の厳しさに「老幼婦女は海岸に打ち伏せ号泣」とある。
映画では香川照之が演じる商人が開拓に着いてきている。実際も「岡屋惣助」という商人が着いてきているがすぐに神戸に逃げ帰っている。
ところが開拓は試練続き。そこに追い討ちをかけるように不幸が襲う。
7/30には静内に建設した沢山の家々が火事で焼けてしまう。8/23には第二弾の薩摩よりチャーターした平運丸が紀州沖で暴風雨にあい沈没。80人以上が溺死する事件がおこり北海道への移住は実質打ち止めとなってしまった。
静内では開拓に専念したが、さすが武士。12月には益習館という学校を建築している。
(M8の記録では32人が在籍。朝8時から16時までが授業であった)

さて、北海道のその厳しい気候で、実際、脱落者がでていたらしい。そこでその脱落者を食い止めるために稲田家の誰かを北海道へ移住させる話が持ち上がる。選ばれたのは藩主の妹の「陽子さん」。
M6の3月28日に浅川繁が洲本までお迎えに行き5月15日に到着。そのまま陽子さんと合流し静内を目指すも途中、奥州三本松(現在の十和田湖)で赤松を手に入れ静内に植える、これは今でも100年の赤松として現存している。ちなみにM7の5/8には浅川は、陽子のお付きの「きくよ」さんと結婚した。

さて、岩根静一は静内に到着した際に野生の馬を見つけ、また実際に乗ってみたらしい。その評価は高く、その後、馬種改良に人生をかける。現在の静内は有名な名馬の産地で、オグリキャップやタニノギムレットが有名。現在、現在の静内町は洲本町と姉妹提携町。

1984年の五社英雄監督の映画「北の蛍」では北海道の月形を開拓する実話をもとに作成された。
慶応元年に福岡藩黒田家の勤皇党の弾圧で乙丑の獄(いっちゅうのごく)が起った。薩摩や長州からは同士を殺したということで目の敵にされ、結局明治新政府には誰一人として人材を送り込む事ができなかった福岡藩。明治4年7月には廃藩置県を待たずに贋金を作ったということで強制的に廃藩させられてしまう。と同時に、福岡藩の月形潔(つきがたきよし)という武士は、大久保より引きついた伊藤博文内務卿より引っ張られて内務省入りさせた。
当時、急務であった北海道開拓は沿岸部より手をつけられた。それは手ごわい気候に森林や熊をはじめとした猛獣がいたから。当時は各地でおこった動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)と、盛り上がる自由民権運動のために囚人が増加。日本に2箇所しかない刑務所は既にいっぱい(東京の小菅・仙台の宮城)そこで伊藤博文は「囚人を開拓民として使うことを提唱。」その担当者としてこの月形潔を任命した。

明治13年4月18日 横浜 4月21日 函館 そして4月29日に札幌に到着、さっそく集治監(刑務所の呼び名)を立てる場所を探し始め、黒田清隆開拓使長官があげた3つの候補地、「十勝川沿岸、石狩川沿岸須部都太(スベツブト;川が合流する地点の意味)、羊蹄山山麓」の中で、・石狩川は交通手段として活用できる・裏手には山があり脱走を阻止できる・民家が密林地帯・肥沃な大地で農耕利用可能ということで、この須部都太がまさに集治監建設地に最適と決定した。
明治13年8/7集治監の建設が開始、樺戸集治監と名付けられ、その規模は3500万坪、最大12,000人を収監できる施設。これを建設させるために40人の終身刑の者を送り込み建設に従事。そして大正8年にようやく廃止となった。

明治14年9/14には式典がおこなわれ初代の典獄にはもちろん月形潔、そして同時に月形村の村長として多くの人に慕われた。
他の作業としては石狩平野の道路工事。オレンジ色の服を着せ、2人1組で、足に鎖を付けさせた。この鎖は今でもところどころから発見されるらしく、鎖塚として各地に残っている。明治14年~大正6年までの期間で1046人が死亡。
月形は明治19年に体を壊し帰郷。明治27年48才に福岡でなくなっている。また、月形は何度も伊藤博文へ視察しに着て欲しい旨を伝えたが結局伊藤はこの地へ行くことは無かった。
この月形の地は昭和50年代に正式に刑務所を誘致したことで再度有名となった。

さて郷里に帰った月形は実は様々な事をしている。
福陵新聞を創設。これは現在の西日本新聞の前身。また九州は非常に鉄道の対応が速かったのはこの月形の尽力によるもの。いわば福岡、九州の発展に非常に寄与した方。
さてこの樺戸集治監で有名なエピソードはある。

新撰組で有名な永倉新八は明治4年以降は杉村義衛と改名しこの樺戸集治監で働いている。
また五寸釘の寅吉という脱獄名人がいた。その記録は5回。人殺し以外は大概やったというもので、
追われて逃げる時に五寸釘を踏み抜いたまま3里を逃走したそう。藤田組贋札事件で有名になった熊坂長庵がいた。

記載内容は一坂先生が話された内容を私が筆記+記憶を辿り脚色しています。

2011/07/15

2011 7/15 ちゅうかそばの店 丸福

今日のお昼は堺筋本町と長堀橋の間にある「ちゅうかそばの店 丸福」。
連れて行ってもらいました^^







最近乱立ぎみの個性派店舗。切磋琢磨し競争・・スクラップアンドビルド。長く愛される味って、きっとこんなのなんだろうなーって考えさせられる味でした。
主張しすぎない薄口のお醤油味、とってもまろやかで優しい味でした。


物足りないって感じる方もいらっしゃるとおもいますが、強烈な個性は飽きられる・・だから、長く愛される味ってコレなんだとおもいます。

 【食べログ】
 http://r.tabelog.com/osaka/A2702/A270201/27020178/

2011 7/15 土佐稲荷神社 


今朝のお仕事先は、西長堀方面!

「やったー!早めに行って土佐稲荷神社さんへ参拝してこよう」

幕末フェチな私の思考はこんなものです。




ということで、土佐稲荷神社へ参拝してきました。この神社は元々は土佐藩藩邸、その後三菱の創始者の岩崎弥太郎の家のあった場所でもあります。

なによりも森鴎外の書いた【堺事件】では、慶応4年の2/15(1868/3/8)に降って湧いたようなトラブルで、フランス側より、事件に関与していた中から20人が切腹を要求してきた。

---------引用--------森鴎外 堺事件

「これは御隠居様がお直に仰せ渡される筈であるが、御所労のため拙者が御名代として申し渡す。この度の堺事件に付、フランス人が朝廷へ逼り申すにより、下手人二十人差し出すよう仰せ付けられた。御隠居様に於いては甚だ御心痛あらせられる。いずれも穏に性命を差し上げるようとの仰せである」言い畢って、深尾は起って内に這入った。
 次に小南が藩主豊範の命を伝えた。
「この度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いて好いか分からぬ。一同稲荷社に詣って神を拝し、籤引によって生死を定めるが好い。白籤に当ったものは差し除かれる。上裁を受ける籤に当ったものは死刑に処せられる。これから神前へ参れ」と云うのである。
 二十五人は御殿から下って稲荷社に往った。社壇の鈴の下に、小南が籤を持って坐る。右手には目附が一人控える。階前には下横目が二人名簿を持って立つ。社壇の前数十歩の所には、京都から来た砲兵隊と歩兵隊とが整列している。小南が指図すると、下横目が名簿を開いて、二十五人の姓名を一人ずつ読む。そこで一人ずつ出て籤を引いて、披いて見て、それを下横目に渡す。下横目が点検する。この時参詣に来合せたものは、初何事かと恠み、ようよう籤引の意味を知って、皆ひどく感動し、中には泣いているものもある。
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籤に外れたものは非常に残念がったそう。
翌朝、この土佐稲荷神社から、堺の妙国寺までの大行列が続いた。


---------引用--------森鴎外 堺事件
一同が藩邸の玄関から高足駄(たかあしだ)を踏み鳴らして出ると、細川、浅野両家で用意させた駕籠二十挺を舁き据えた。一礼してそれに乗り移る。行列係が行列を組み立てる。先手は両藩の下役人数人で、次に兵卒数人が続く。次は細川藩の留守居馬場彦右衛門、同藩の隊長山川亀太郎、浅野藩の重役渡辺競の三人である。陣笠小袴で馬に跨り、持鑓を竪てさせている。次に兵卒数人が行く。次に大砲二門を挽かせて行く。次が二十挺の駕籠である。駕籠一挺毎に、装剣の銃を持った六人の兵が附く。二十挺の前後は、同じく装剣の銃を持った兵が百二十人で囲んでいる。後押は銃を負った騎兵二騎である。次に両藩の高張提灯各十挺が行く。次に両藩士卒百数十人が行く。以上の行列の背後に少し距離を取って、土佐藩の重臣始め数百人が続く。長径凡(およ)そ五丁である。
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さてこの5丁とはどれくらいの長さなのか・・というとメートル条約加入後の1891年に、メートルを基準として1.2キロメートルを11町と定めたとのこと、ということは1町は約109.メートルとなる。なので5丁は545メートルの大行列。

【下記もあわせてお読み下さい】
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/09/2010-926.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/11/2010-1120.html

堺事件を取り上げた小説は「森鴎外」著が有名ですが、いささか誇張が多いよう。
書かれた時代が大正3年(1914)なわけで、対外的にも誇張する必要があったのかも。
大岡昌平氏の小説「堺港攘夷始末」は著者の没後の1989年に発表されており、当時の状況や背景、それぞれの裏づけをみっちりと調査されているようなのでまさに現場そのものを見ているような何とも言えない迫力を感じてしまいます。

2011/07/11

2011 7/11 STOP!上関原発!


ストップ!上関原発!
東日本大震災が発生して今日で丸4ヶ月。
それまで普通に暮らしていた私達の価値観がまるっきり変わってしまう出来事でした。
とはいえ、この大阪の地は被災地より数百キロ以上離れているためか、どこかよそよそしい
対岸の火事的な味方をしているような気さえするという意見が有りました。

しかしけっしてそんなこと無いですから・・。私達はその痛みや辛さ、悲しさを様々なメディアを通じて
感じているし、それぞれが何をすれば良いのか、皆が出来る範囲で取り組んでいますから。

私がはじめて上関に行ったのは昭和60年頃。原発の建設の話しがあると聞かされて大変驚きました。
そして数年起きに上関に行く機会がありました。
その度に町が少しずつ様変わりしてゆくのを感じていました。

そして1号機は2012年6月着工し2018年3月運転を開始予定。2号機は2017年度着工し2022年度運転開始らしい。
本当に原発は必要なのでしょうか?
また地震や津波が上関原発を襲ったら、瀬戸内海の交通の要所だけに甚大な被害がでることになるんじゃないの?陸路で上関原発に行くには、わずかなルートしか無いのに・・本当に大丈夫なの?
福島の方々をはじめ、メルトダウンした地域の多くの方々を苦しめ続けるであろう、処理済み核燃料や放射性廃棄物の処理はいまだに万全じゃ無いらしいけど。。。
なによりも地元の方々の理解が得られないのに建設しても運営できるとは到底思えないんんだけど。
私も上関原発の建設には反対を表明します。

2011/07/09

2011 7/9 なわて落語会

昨年に続いて2回目のなわて寄席です。
会場は700人の大入り満員ということで13:30会場のところを12時前に入りましたがすでに並んで居られてびっくり。
益々繁盛でホントに良いことですが、それでも今年のこの猛暑。フロントに入りきれないくらいの方々が多数詰め掛けてみんな汗いっぱい。
運営側が手間を掛けてでも指定席にされたほうが良いとおもいますがどうでしょうね。
 
 
桂鯛蔵 つる

2003年に桂都丸(塩鯛)さんに桂さん都としてご入門。昨年8月に塩鯛さんご襲名のタイミングで
鯛蔵と改名されています。
きっちりとした丁寧な落語で、なかでも甚兵衛さんの家にある貼り混ぜ屏風に書かれている絵の中から
「ぼらが素麺を食べている」や「船場の鶴=千羽鶴」など手堅く笑いを重ねてられました。
いつもこの「つる」を聞くたびに感じるのですが「南京虫は脚気患うか?」の件はそろそろ新しいフレーズにされてみてはいかが(笑)

桂吉弥  青菜

マクラは、落語ブームから朝ドラへ。
たしかにあの『ちりとてちん』がきっかけとなって現在の落語ブームが巻き起こり
復興を遂げたわけで。2007年の10月から放映されましたので早いもので、この秋で4年前となるんですね。
そしてご自身ご出演のテレビ番組のお話へ。
生活笑百科での仁鶴さんの真似がとっても秀逸♪

さて、ねたの方ですがさすがにやりこなれた感がいっぱいのお話です。
おもわず口笛が入ったり、おてしょう=小皿(こざら)・わさび=もぐさ・おなご=いなご・手=屁と言い換えたり。テンポも間もさすがだし、クスッとするような箇所も筋を壊さないベストな箇所で入っておりお見事なもの。手堅く確実に会場を沸かせてくださいました。

桂ざこば ざこば一代記

大泉逸郎の曲の「孫」をいきなり歌いだしました。
「なんでこんなに 可愛いのかよ 孫という名の宝物」・・・「孫ほど憎たらしいもんはおまへんな!」の一言で
場内ドカーン!お嬢さんお二人ともにお子様が誕生しましたのでしょっちゅうご自宅にお孫さんが遊びに来られるとの事。たしかにまぁ色々あるんでしょうねー。
で・・・てっきりネタの方は「子は鎹」あたりかなー?っておもった矢先に「なんや落語する雰囲気や無くなってもおた・・」とのことで自分の半生を語りだされました。
西成金塚、今池、日本橋中学(ぽん中)等の聞き覚えのあるローカルな地名やそれぞれの出来事、父の事や母の事、そして桂米朝さんとの出会いと入門のエピソードなどを語られました。たしかにナマで聞くことのできないお話でしたが私はやっぱ噺が聴きたかった。

桂雀々 さくらんぼ
マクラは、なぜか昨年と同様。。「取り消し婆」「なぞなぞおじさん」
枝雀さんのライブラリで見た事があったこのネタ。
ものの見事に枝雀さんを彷彿させる所作が随所に入って場内大爆笑。なんとも不思議な世界です。

桂南光 佐野山

芸能界での様々な 八百長のお話で公開録画での「笑い屋さん」の存在や、日曜の夕方の大喜利番組の噺などからお相撲の噺へ。
寛政力士伝は、先日から講談でよく聞いていましたが今日のネタは「佐野山」。ちなみに講談では「佐野山権平」「谷風の情け相撲」という演目となっています。
引退後の進路を聞かれた佐野山は田舎で漬物屋をするとのこと。谷風は「ますます、孝行(沢庵)しなはれや」がさげ。