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2012/01/03

2012 1/3 一心寺亭

恒例の一心寺亭。3日目♪
さっすが春団治さんがトリということで、会場は超満員!
普段の最前列の前にまだ1列つけたしていました。

桂 鯛造  二人癖

広島ご出身の9年目、天下茶屋から上町に引っ越して驚いたエピソードを紹介し、ネタへ。


桂 文華  替わり目
学校寄席でのとんでもない先生の発言で会場に笑いを誘います。
文華さんの酔っぱらいは秀逸ww


桂 小春団治 茶目八
ご入門されて35年、当時のエピソードをお話くださいました。また松鶴さんのとんでもない爆笑話もww。
さて、ネタはてっきり創作かとおもいきや古典ネタ。
それでも噺の中に現代の様子を巧みに練り込んでいます。

中入り前に、恒例の抽選会。
えへへwwまた当たっちゃいました。
1日は一門カレンダー。今日はクリアファイルと出演者全員のサイン色紙!
昨年に続いていきなり幸運をまき散らしてますww


喜味家たまご 女道楽

喜味家たまごさんは、昨年逝去された上方漫才界の重鎮の喜味こいしさんのの娘さん。
「上方文化を無くしたらあかんねん」と、次世代に受け継ぐ事を熱く語ってくださいました。
昭和初期の音曲漫才の中で語られていた芸で、上方落語の「口入屋」で、その名前だけが登場してきます。
そもそも、笑いを取る芸ではありますが、そのたしかな技量と滑らか話術に感動さえ覚えました。

生前、こいしさんはよくご自身のご家族をネタにされていました。
鬼瓦・・生ゴミ・・そんな描写があったそうです。
サイやら猫の茶碗やらの描写もww

出待ちして、お話とお写真を撮らせていただき握手をしていただきました。

今日、日本の話芸のスペシャルで「いとこい漫才」が放映されていました。すると見事に
鬼瓦、生ゴミねたがww。漫才の後半には鶏の戒名ネタもww
もう一人で大爆笑してました。





桂 春団治 祝いのし
淡々と話しているようで話の聴かせ所やくすぐりを要所に盛り込んでこられ、その屈託のない笑顔が心をぐっとつかんできます。
やっぱりお見事!また来年も必ずお目にかかれますように。


日本には四季があり、時折々の情景を表す美しい言葉があります。
また、徳川幕府の政策による鎖国が育んだ文化があり、それは上方と江戸に分かれて独自の味わいをもって熟成してゆきます。ところが近年になり高度成長期とともに発展するマスメディアにより新しい文化が盛んとなって古い文化の継承がおろそかになってきました。
能、狂言に歌舞伎、講談に落語・・これ以外にも多くの貴重な文化がすでに失われています。
上方・・伝統ある地域、私たちの住む大阪なのに、大阪の文化を疎かにしているなんて恥ずかしいことです。
そんなことを考えたお正月公演でした。

2012/01/01

2012 1/1 一心寺亭

毎年恒例の一心寺亭。この笑いで私の1年が明けます。
ほんとにありがたいことで、桂 福丸さんの落語で1年が始まり、旭堂南左衛門さんの講談で
1年が終わるパターンを数年来繰り返しています。

桂 福丸 阿弥陀池
マクラは軽く流してネタへ。
数年前のまだ初期の頃からの福丸さんの頃から知っていますが間違いなく上達していますよ。
工夫もあり、練習の成果ももちろん。
あと数年したら「でこに小判」「豚の耳に念仏」なんかも定番になるのかもしれません。

桂 小春団治 豊竹家
例年、ご自身の創作落語をされますので、今年もてっきりとおもっていました。おもいっきり意表をつかれちゃいました。
去年同様に、このあと、帝国ホテルでの落語会がありますので出番ギリギリまで演じてくださいました。


桂 団朝 幸助餅
きっちりと笑わせてくださる期待を裏切らない団朝さん^^
ネタはこのお話はダメなんですよねー。
どうしても雷関に感情移入しちゃってクライマックス以降は泣き通しになってしまいました。


抽選会では、昨年通り、桂 福丸さんと桂 団朝さんの司会で進められてゆきました。

桂 智之助 マジック

色物芸なんだけど、笑いに重点をおいたマジックで、おなかの底から笑ってしまいました。
あの飄々とした話しっぷりと、間がどうも苦手ですww
スプーン曲げやトランプ、ティッシュネタなどつぼにはまりました。


月亭八方 堀川

残念ながら笑福亭松蕎さんの代演でご出演。様態がほんとに心配です。さて八方さん、やりなれた噺と、慣れていない噺とどっちにしようか?とだいぶ悩まれているようで客席の拍手で決められたようです。
ネタは「堀川」 酔っぱらいの息子と、暴力息子とその母親、うどん屋、大工等登場人物居の多いお話で難度が高いお話です。
今回初めて、八方さんの落語を聴かせていただきました。緊張の代演、ほんとにお疲れさまでした^^

2011/12/27

2011 12/27 第一発見者!

通勤途中に、民家に突っ込んだトラックが!電柱と民家の間にすっぽり挟まっています。
どうやら、つっこみたてみたいで、ガラスなどが散乱している。

とりあえず、離れたところから写メを撮ってから駆け寄り、運転手さんに声をかけました。

「おっちゃん、怪我はない?」

弱々しく「あぁ…」と言う返事とともに「バックできる?」と尋ねられました。

状況は車の左ミラーは壁に当たっており、後ろ1mには電柱が控えています。
左目一杯ハンドルを切ろうとする運転手に、まず30cmだけまっすぐバックするように指示。

このあたり、中々、男らしい判断です(笑)

私はできるだけ大きな声で「ストップ!」と叫ぶ。
左前が壁から出たことを確認し、左目一杯にハンドルを切らせ50cm程バックさせてようやく脱出成功!

なんとか道路にでたトラック。

周りにはすでに騒ぎを聞きつけて数人が集まっています。

「おっちゃん、いま警察呼ぶからちょっと待ちなー!」と言うと

なんと車は走り出してしまった!!

「え~?・・あかんやん!民家へ当て逃げやん!

すぐさま110番して警察を呼ぶ。

まぁ、私も写メ撮ってるから構わないか…と思うと同時に、少年が走って鮮明な写メを撮影して戻ってきました。

今日は誰しもがカメラを持っているから悪いことは出来ないんですよね。

その後、すぐに自転車で駆けつけてきたおまわりさんに、色々聞かれました。
まぁ色々と・・。

それから30分後に解放されたものの、会社へ行ってからも警察から2回電話がありました。

聞かれる事はおんなじ事ばっかりで、ナニが聞きたいのかよくわかんないご質問を頂戴しましたww
もちろん出来るだけ協力するつもりだけど、たいがいにして欲しいってのが正直な感想です^^


で、翌日の朝。7:30・・・。警察から早速電話がありました。

事情聴取をしたいのできてほしいとの事。
毎朝の通勤ルートを少し変えたらいけるので快諾し9時にお伺いしました。

この建物、ガワはキレイなのですが中は意外と古くてびっくり!

廊下の一番奥のお部屋に入るとすでに5人くらいの男性が忙しそうにしています。
さっそく担当の方が着てくださって私の状況をひとつずつ文章にしてゆきます。
また、撮影した写真をプリンターへ赤外線転送し印刷。詳しい見取り図とともに再確認です。

「運転手さん、顔、覚えてる?」の問いに「はい!」・・・出てきたのは12人の同じ年頃の男性の顔写真一覧表。

「誰が運転手やった?」って・・ちょ・・・おま・・・あかんやん。
むっちゃプレッシャーやん。。。

それでも印象深かった目元と頬でクリア!おおよその年齢の質問も正解!

おぉ。。なんとか覚えてるもんですねぇ。

ってことで2時間。

¥2,900支給されたということでありがたーく頂戴し出勤しました。

この運転手さん・・私の手元から逃げた後、某場所で多重追突をされたらしくってびっくり。
裁判のときは私も出席かも。。。です。

2011/12/25

2011 12/25 聯合艦隊指令長官 山本五十六

久しぶりに骨太の映画を鑑賞した満足感に溢れたと同時に、日本が行ってきた真実の歴史をあまりに知らなさ過ぎる自分に腹が立った。ネタバレしない程度に記載します。

世界大恐慌から逃れる道を戦争に求めた日本は悪化する国内経済を立て直すために海外侵略への道をえらんだ。
満州事変から国内で相次ぐテロリズム。日中戦争から三国同盟を経てよからぬ方向へ加速度的に進んでゆく。

国内の世論を煽るマスメディアと山本との対立が浮き彫りとなり、ついに最後まで三国同盟の締結を拒み続ける海軍もついに締結せざるを得なくなり戦端が開かれた。
その指揮を取ることとなったのが、皮肉にも最後まで締結を拒み続けた山本五十六氏。

あくまでも最後通牒にこだわりフェアな形を望んだが、奇襲という結果となった真珠湾攻撃から日本の泥沼式の戦争が始まってしまうことに。常に講和による終戦を念頭においた戦いを行ってきたがことごとく、様々な官僚の思惑が絡まってゆき最悪のシナリオへと進んでゆく日本。
これはフィクションではなく実際に日本で行われていた、わずか70年前の出来事であることをもっと認識すべきだと感じました。
この春の震災や原発の問題もけして美化することなく真実を描き事実を事実として伝えることが私たちができる努めなのではないでしょうか。

歴オタ的観点からすると、戊辰戦争で悲惨な目にあった長岡藩出身の山本五十六さんは、長岡藩の家訓である徳川への忠誠や米百表の精神、そして奥州列藩同盟の河合継之助のような質実剛健で正義感溢れる血をひいておられます。

※参照 http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/02/2011-212.html

映画の中で表現された箇所で、気になったのは、明治維新からほぼ70年経過した時代でさえ、長岡藩が、長州や薩摩の部下を率いることに対する違和感の意識があったのでしょうか。
ぜひ若年層にも見てほしい映画「聯合艦隊指令長官 山本五十六」です。

2011/12/21

2011 12/21第1回 旭堂南斗の講談会

■平成23年12月21日(水)19:00開演
■出演:
口上あり
旭堂南斗 「山内一豊とその妻・千代」「細川の福の神」
旭堂南左衛門 「正直車夫」
旭堂南青 「源平盛衰記・那須与一」
旭堂南舟 「赤穂義士伝・堀部弥兵衛の駆け付け」
■木戸銭:¥1,000
■場所:柳谷観音・泰聖寺(無料駐車場あり)



第1回 旭堂南斗の講談会 ~やっと正式前座になりました~

会場に到着してみてびっくり!泰聖寺さん2階のご本堂の座席は満席でした。
講談を愛する方々がホントに勢ぞろいしたって感じで嬉しかったです。
今回は初めての南斗さんの会!ということでご祝儀を出させていただきました^^


旭堂南斗 細川の福の神

寛永18年(1642年)12月の末のお話。江戸藩邸でのお話。
寛永の大飢饉で国許の庶民を苦しみから救うために様々な資財を売った為に
「貧乏細川」と呼ばれている。そんな藩邸の前に松飾売りが通りかかり、藩邸の前に立派な松飾を設置してもらうところから話がはじまります。
この松飾売りは武州八王子の三太郎。この者が設置した松飾が縁起が良いことで細川家の大出世がはじまる。


旭堂南舟 赤穂義士伝 堀部弥兵衛の駆け付け

いよいよ吉良邸への討ち入のその日。老体の堀部金丸弥兵衛は、時がすこし早いということで仮眠をとる。
家族の者は討ち入へ行かさぬようにそのまま寝入るよう声をかけずにいるが・・・。


旭堂南青 源平盛衰記・那須与一

講談はまじめに、真剣に聞いてはいけないですよー!のネタフリ。
ご存知、那須与一の物語。
那須一郎の以降に九郎が続いて平家へ加担。十郎の次が、十あまる一ということで与一だそう。
順に的を射抜く命令を断る際の、那須十郎ためたか(漢字がわかんない)の困顔と与一が引き受けた際の描写が特に印象的でした。
そして見事に冒頭のネタフリが生きて講談を終えられました。


旭堂南左衛門 正直車夫

南斗さんの名前の由来についてお話されました。
南斗(奈良出身で南都に掛けてあり、また輝く旭堂の星となれの意)
さて、お話は明治22年神田泉橋付近でのお話。
当事の総理大臣「黒田清隆」が登場。
正直者の頭には神宿る・・そんなお話でした。


口上

口上で演台の上には、旭堂南斗さん、旭堂南舟さん。
そして下手には旭堂南左衛門さん、上手には司会の旭堂南青さん。
南青さん「今の気持ちを四文字熟語で表すと?」
南斗さん「無病息災」・南舟さん「一意専心」とのこと。
今後のお二人のご活躍を心よりお祈り申し上げます。


旭堂南斗 山内一豊と妻・千代

織田の家来となった山内一豊。禄が十分ではなく非常に苦しい生活が続きます。
良妻の千代のおかげで名馬を手に入れることに。
無事、織田信長に目をかけていただき・・・。


終了後に、少しの時間ですが、旭堂南左衛門さんと、某カルチャーセンターの方と3人でお話をさせていただきました。本題はまたあらためて書くとして、南左衛門さんの師匠さんの3代目南陵さんと知り合った時のお話を聞かせていただきました。
やっぱ、講談って良いですよねー。
頭の中にそのイメージをかくことが出来れば、だれもがその世界に行くことができる。
時代や場所をえらばずに、笑いに涙、悲しさに楽しさをすべて味わうことができるんですから。
もちろん、落語も同じだけど、講談はひょっとしたらこれってホントの話じゃないの?と思わせてくれ、終わった後にいくつも知識が残る事にあるとおもいます。
私は、あんない長いお話を覚えることはできませんが、それでもそのエッセンスだけでも忘れないようにお話のキッカケだけを記述するようにしています。
すこしでも講談に興味をもたれる方が増えることを願ってやみません。

2011/12/18

2011 12/18 講談まつり

会場は超満員!座椅子席、椅子席以外にもだいぶ客席を増やしたようです。
講談ファンが増えるのってほんとに嬉しいものです。
現在、七井コム斎と改名された元旭堂南半球さん(1976年生)が2011年の5月初旬にユーストリームで印象的な事を言われていました。なぜ、改名されたのか・・ の理由の件の中の言葉で、《講談は血湧き肉踊り、楽しいそしてほろっと・・、とにかくおもしろい、とにかく楽しい、とにかくワクワクするというのが僕の目指す講談》。といわれていました。
追っかけている一門は違えども、講談ってわくわくして、どきどきして。ほろっとして、にこっとして!これが少しでも沢山の方々に感じていただければ本当に嬉しいです。

旭堂南舟  般若寺の焼き討ち

いつも通りのほんわかムードで、携帯をお手洗いに流されたお話をされました。さて、ネタは難波戦記 般若寺の焼き討ち。スイッチが入ると口調もトーンもかわるんですねー。


旭堂南青 木津の勘助

私の一番大好きなお話「木津の勘助」。
お話の中で、淀屋十兵衛を叱咤するシーンがあるのですが、おもわず私もビクッとしてしまいました。
また2回も会場からいびきが聞こえるというアクシデントをうまく講談に取り入れ会場の注意を元に戻されるシーンがありました。本当にお見事でした。


客席参加型座談会 「旭堂南舟 南斗 前座のご挨拶」

司会は南青さん。
「実際にあった困ったお仕事での出来事」「将来の夢」・・等ベタな質問から繰り広げられる返答に見事につっこみ、会場に笑いにまきおこします。
南斗さんが、必死に回答するも南舟さんはニコニコ♪対照的なキャラのお二人です。
飛び入りで南湖さんが私服で登場!うまーくまとめてお開きとなりました。

旭堂南左衛門 水戸黄門漫遊記 鮫川の渡し 白扇の掟

3年で20席のネタを覚えて前座となるそうです。ちなみに南青さんは2年でマスターされたそう!
さて、まくらでは座談会で快調の飛ばした南青さんがまだご入門されたての時の思いでをお話しくださいました。
豪華客船飛鳥世界一周での講談会で南左衛門さんに「英語ができますから」ということでご同行。
途中のいろんなエピソードで「もう、お前、日本に帰れ!」って3回ほどあったようですww
今の南青さんからすると信じられませんねー^^

旭堂南北 柳田格之進
 

彦根藩家臣の柳田格之進は清廉潔白な人柄であったが覚えのない罪で職を失ってしまう。
碁会所で知り合った両替商の井筒屋十兵衛と気があって毎日、碁三昧。ある日50両が紛失するその疑いからつらい日々を過ごすことに。

南北さんの落ち着いた口調と間は私の心に滲みて終わると同時にもう涙が止まりません。
講談で泣いたのはほんと久しぶり。(私が講談に魅力を感じたきっかけがこのときの講談でした。演目は幸助餅。そして演者は旭堂南左衛門さんです^^)
人情話って良いですねー。また聞きたい講談師さんです。

2011/12/17

2011 12/17 教科書に書かれない幕末史 ~琉球処分

今日の講義は【琉球処分】処分?え?って感じで始まりました。

H16に琉球大学の非常勤講師をされたそうで、松下村塾、高杉晋作さんのお話をされたそうですがあまり反響は宜しくなかったそうです。

明治新政府がすこしでも早く体面を保つために急ぎすぎた歪が北海道や沖縄に出ているのでしょう。
そういえば、沖縄の歴史ってほとんど知らないことに気がつきました。
同じ日本なのにまったく違う道を歩んできた沖縄の歴史を教えていただき愕然とした気持ちになったと同時に、とんでもなく酷いことをしてきた明治新政府に腹立たしい思いがしました。

明治新政府は明治2年に版籍奉還、明治4年に廃藩置県を行っていますが当時の琉球はまったく蚊帳の外。
ところが明治5年の9月14日には置藩を行い、はじめて琉球藩が出来ました。当時の藩主はそれまでの国王である尚泰(しょうたい)。

さて、琉球は1372年に隣国の明の進貢国となり冊封(さっぽう)関係を結んだおかげで貿易が活発化。
そんな琉球に悲劇が襲いかかる。

関ヶ原の戦いで勝利を治めた徳川家康より琉球制圧の指令が島津家に飛んだ。
1609年、島津の兵隊3000人が攻め入り首里城を制圧し、琉球は薩摩の不傭国となり1611年には、・奄美を薩摩にものとする ・薩摩に税を納める ・今回の戦の正当性を認める ・掟十五条
を守る(他国貿易・支配・税金・意識面)の掟を結ばされてしまう。
これにより薩摩藩に対する年貢や江戸への儀礼が必要となってしまった琉球。しかも中国(明)との関係も続いているために板挟み状態、その後、中国は明から清となったがその関係は継続し、非常に厳しいながらも王国としての体面を保っていた。島津は清に対して自藩の存在に気付かれないように注意を払わせたその反面、日本国内に対しては、琉球を制圧し、配下としたことをアピールさせたらしい。まったくひどい話です。

ペリーが浦賀に来た1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、実はそれよりも前の5月26日に琉球にきている。
なかば無理やり首里城へ入り開国を促すための大統領の親書を手渡した。

明治5年、新政府はそんな琉球に使者(ならはら・いじち)を送り報告させるとともに、琉球より政府へ
明治維新慶賀使節を出すことを要請。明治5年9月14日に明治天皇に謁見。
この時の外務卿の副島種臣より置藩とすることを命じられた。この認識では琉球王国が琉球藩となった呼称変更だけだから安心せよという雰囲気であったのか。。

さて、ここで勃発したのが明治7年の台湾出兵。
参照) http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/11/2011-1119.html
明治政府は中国に対し、自国民が殺されたと宣言しているが、琉球にとっては大きなお世話!
この事件で琉球藩は外務省から内務省管轄。


明治8年7月10日 明治政府から命じられた役人の「松田道之」が琉球へやってくる。


松田道之は鳥取藩家老の又家来(陪臣)で、内務官僚。
明治新政府としては琉球を日本の一地方として組み入れたいわけなので、中国と縁を切れ!とか明治の年号を使え!とか刑法は日本国内法に準じろ!とか前回の台湾出兵のお礼を明治天皇に言いに行け!とか色々と言って来た。
もちろん琉球としては、呼称が変わっただけという認識なのですべてNO!
それならいっちょ武力で琉球を制圧しようかとの方向もあったが新政府はいまいち自信が無かったようです。

明治8年8月20日 三司官(琉球王国の上位クラスのお役人さん)が松田道之へ嘆願するがむちゃくちゃな理論を言葉でねじ伏せてしまう。
9月2日までに返事をしろ!という松田に対し9月7日に政府と交渉を行いたいという返答を行うとともに、その後何度も嘆願をおこなうがすべてNG!

不幸なコトにこのあたりから新政府は忙しくなってきた。というのは西南戦争が勃発(明治10年-)
琉球どころではなくなってきた。
琉球はこの間になんとかこの非道な話を東京にいる米・仏・和蘭・中国などの公使に収拾を依頼するも失敗。国際世論に取り上げさせて他国を後ろ盾にしたかったようだが、東京にいる琉球人をすべて退去させよという裏目にでる。

明治12年1月25日に政府の命令を無視して他国の公使へ接触したという理由で、松田がまた琉球へやってきた。この時の内務省TOPは伊藤博文さん。前任の大久保利通さんは暗殺されている。
同1月26日には琉球の内務省出張所へはいりその後首里城へ。
2月3日の10時までに返答をしろという松田に対し即答できない旨を返答する。
琉球はなんとか国際問題にしたかったのだが難航。松田は琉球人の出入りを監視し届け出が必要として。松田は捨て台詞「後日の処分を待っておけ!」を残して帰ってゆく。

そして3回目の松田登場!
明治12年3月25日に400人の軍隊と140人の警官をつれて首里城へ入ってゆく。


そして3月31日の正午までに退去せよ!という命令をだし4月4日には沖縄県と改名。4月5日には鍋島直彬(なおゆき※旧鹿島藩士)を県令とした。

実は恐れていたのは暴動であったのか、藩王一家を優遇、生活を保障、諸税を軽減することを松田は約束している。

この3月31日・・ついに首里城は内務省管轄となり、熊本鎮台がラッパを吹き鳴らしながら入城した・・琉球の最後の日で屈辱の日となる。

さらに追い討ちをかける。

藩王(尚泰)を上京させよという命令が下るがまぢで病に臥せっている
また琉球人は3人以上の集合は禁止というとんでもない命令まででてしまう。

ついに5月18日にはとうかい丸で上京。
6月18日には新県庁に従えという命令がくだる。。。

あまりにも強引すぎた方法の明治新政府。いままでの慣習や税制等を残す旧慣温存策で沖縄を統治することとした・・そのために沖縄に近代化は大幅に遅れることとなった。
そしてわずか66年後の1945年には第二次世界大戦の悲劇によりアメリカに接収。
戦後27年の1972年にようやく日本国となった。

2011/12/11

2011 12/11 吉祥寺 義士祭

大阪の吉祥寺にて義士祭が行われました。
長く大阪に住んでいながら非常に恥ずかしいのですが、今回初めて参拝させていただきました。
我が町の歴史をきっちりと把握し、次の世代へ受け継いで行くことはとても大切なことと再認識いたしました。


浅野家大阪菩提寺義士の寺 吉祥寺
墓碑由来
大石内蔵助をはじめとする四十六士が元禄十六年(1703年)二月四日に切腹の後
足軽のゆえを以って幕府から切腹御免となった寺坂吉衛門が四十六士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀十両を添えて江戸では幕府に遠慮して墓の出来なかった義士達の冥福の為の建碑を依頼してたもので現在の墓は元文四年(1739年)義士三十七回忌のさい、大阪の豪商達が相寄り、造立したものである。戦火を蒙ったが中央の五輪の塔が、長矩候の墓で浅野本家芸州候が建てられたのも「冷光院殿浅野内匠頭、元禄十四年三月十四日」と自刃の日が刻んである。その向かって右側に大石内蔵助、左側に大石主税の墓、周囲は吉田忠左衛門をはじめとする四十四士の戒名と行年を刻んだ玉垣が取り囲み遺髪、遺爪、鎖かたびらが安置されている。


江戸幕府の庶民への義士信仰の制圧にもかかわらず人々の心は益々それに引かれていった。討ち入り後、四十七年目に上演された仮名手本忠臣蔵の浮世絵によって巧みに表現されて行くことになった。
義士討ち入り百五十年祭には当寺は絵はがきで配布した有名な木版を造立したが惜しくも戦災により本堂遺品共々消失した。平成十四年義士討ち入三百年祭にあたり巧みな石工に再現されたものでありその緻密さを労苦には頭の下がる思いがする。何時の時代にも物資を超越した義士の至誠報恩のゆかしい精神はこの討ち入り姿の石彫りで永久に伝承されるであろう。
平成十四年十二月十四日 大阪義士会