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2023/04/27

令和四年納骨供養大法要開催

 4月26日と27日の2日間に限り昨年納骨を済ませた方々を対象に大法要が行われました。この2日間だけは通常の業務は行わないことから、今まで見たことも無い一心寺さんの風景でした。

普段利用する茶臼山駐車場は長蛇の列。。そこで下寺3丁目の裏手、愛染公園から南50m程度にある駐車場は狙い通り!十分空きがありました。ここから一心寺さんはわずかな距離。穴場です^^

一心寺さんへ近づくにつれ、長打の列が見えます。どうやら事前に受付が必要らしく、三千佛堂へ向かいます。

ハガキを出すと受付印を押して粗品を受領します。無事一心寺三千佛堂で受付を済ませると、大勢の関係者やご住職の案内に従い、一心寺さんの中に進むことができました。

いつも境内のローソク、線香を販売しているあたりにご焼香台と供養塔婆が設置。
順にご焼香を済ませると、御本堂左側のいつも、お線香の煙がモクモクと立ち上る横当たりから、靴を脱いでお骨佛さんの前に進みます。
ここでは多くの戒名が書かれたリストを元に延々と読経をされているお坊さん。おそらく1ページに100人。としても10cm以上のリストですから2万人くらい?
お骨佛さんの前のご焼香を済ませると、中の通路を通り本堂へ入ります。

いつ見ても威厳のある本堂。ここで再度ご焼香を済ませると一通りの式典は終了です。

母のお骨は一心寺さんにお預けしており数年後には開眼法要があります。
「しらん人も手をあわせてくれるんやから、死んだら一心寺さんにいれてや」
「おじいちゃんやおばあちゃんと一緒がええねん」

はい。遺言を守りました。そしてひと月に何度も一心寺さんへ母に会いに行ってますよ^^
マスクのおかげで、手を合わせてどれだけ泣いても目立たないからマスクは良いですね。

追記)

お土産にいただきました袋に「離偏処中」と書かれていました。かたよらず・こだわらず・とらわれず・ひとすじにの意味。
そういえば、般若心境経は「こだわるな」だし、八正道も中道だし。突き詰めていけば「無」に行きつく。




せっかくなので、合邦辻閻魔堂の前の歩道橋に上がり風景を収めました。今まででこの歩道橋に上がったのは初めてです。見慣れた大阪の風景も違って見えました。



2023/04/16

膀胱炎の恐怖・・

 13日明け方のお手洗いで何となく違和感がありましたが眠たさからスルー。そして気が付いたのは出社してから。。あらま・・便器が真っ赤!

そういえばなんともツーンとした痛みがありしばらく動けないことも。。そのうち左下腹部が痛くなりしばし動けず。それでもPMより会議が予定されているので根性で準備、会議へ参加。終わった直後から・・もうダメ。でもすでに病院は受付終了していることから小林製薬ボーコレンを購入。

この薬はおそるべしですね。飲んだ直後からもう大変。

一晩で6回近くお手洗いに行ったことから14日はふらふら。午後早退して病院へ行き、検尿。。

なんとも恐ろしい記憶がよみがえってきます。それは下記のエントリーをご覧ください。

2015 8/6 あれから1年 今だから書ける顛末

2014/8/7に起こった出来事を思い出しました。

かかりつけ医で血液検査をした翌日、「白血病かもしれないからすぐに救急病院へいきなさい!」という電話。薄れてく意識。そして即入院。。さては今回も急性腎盂腎炎か?



今のところ、膀胱炎ということで快方へ向かっていますがこの原因は、絶対に精神的なダメージだと信じています。親知らずの痛みも気管支炎もみーんなストレスだとおもう。

てなことで、体内をアルコール消毒してきました^^

やっぱ冷えて無きゃダメ!

ちょいと焦げ気味。



ふむ。「炙りがっことクリームチーズ」は中々美味ですなー。

2023/03/24

十干・十二支と還暦

 今年、2023年は癸卯(みずのとう)。

干支は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」
十干というのは、「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」。

今年は【癸卯】。2024年はひとつづつ横にずれるので【甲辰】。2025年は【乙巳】。

読み方に注意しようね。

「こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き」だけど

暦では

甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)です。

ここでいう「え」や「と」は「兄(陽)」「弟(陰)」にわかれておりすべてを司る「木・火・土・金・水」に関わっているらしい。。

ちなみに「干支」は12個・「十干」は10個。だから順列組み合わせでは120種類だけれど

「子甲」⇒「子丙」⇒「子甲」⇒「子戊」⇒「子庚」⇒「子壬」で・・・「子甲」に戻ります。このサイクルが60年なので還暦というわけ。。

ということで私・・祝!還暦!です。

2023/03/12

一周忌法要

 12日(日)一周忌法要が滞りなく終わりました。
惜しむらくは今まで私の祖父母の代から続いていました庵主さんが、ご入院中ということ。そこで急遽おなじ曹洞宗のご住職さんに来ていただきました。このご住職はお葬式、諸七日法要の際にもお世話になったご住職さんです。
参列者に曹洞宗の教法をお渡しくださり唱和するスタイル。やっぱ修証義は身が引き締まる思いがします。

・・生を明らめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり唯一大事因縁と究尽すべし・・

大好きな母の死は人生観を大きく変えました。
死は避けられないものだけに今を精一杯生きることに尽きるのでしょう。

12日夜19時頃から久しぶりに滋賀県まで往復。往復150kmくらいなので2時間半程度のドライブになりましたが、運転中、色々と考える事が出来ました。私が背負うもの、家族に背負わせてしまっているもの、「生きる事と死ぬこと」の境目っていったい何なんだろうって。いつ亡くなるのかわからないだけに人は日々を精一杯生きるんだろうなって、禅問答のような回答しか出てきませんでした。





2023/02/23

BP祭

 おそらく大半の方はご存知ない言葉でしょう。

英国人のベーデン・パウエル卿が提唱し世界に広がったボーイスカウトの創始者で、2月22日は彼の誕生日を世界中の人々がお祝いをします。このお祭りを「BP祭」と呼びます。

私の母はボーイスカウト活動に関わっていた関係で私もボーイスカウト活動にはたくさんの思い出があります。

年長者は年少者を導くために手本となることが求められると同時に一体となってスカウト活動の理念と誓を立てます。

私達が日々を過ごす中では様々な事柄が起こります。もちろん想定外のこともあることでしょう。そのためには私達は精神的に肉体的にもベストなコンディションを保つことが必要です。「そなえよつねに」・・ボーイスカウトの一番大切な理念です。

私の大好きな歌「3つの誓い」をよく母と歌いました。

♪三つのちかい 名誉かけて ボーイスカウト おきて守り 人のために 備えよ常に
 ♪強き体 かたき心 ボーイスカウト 築きたてて この世のため 備えよ常に

他にも「掟」や「モットー」など細かく決まって年長者は慕われ、年少者を導きます。

決して宗教でもなく、自衛組織でもありません。

それでいて、団体生活を基調として互いの思いやりの心と努力、友情を育むことができる素晴らしい団体だとおもいます。私が所属していた団はいまはもうありません。それでも当時の思い出だけは生き生きと心に残っています。

これからも色んなことがあることでしょう。肉体的にも精神的にも当時のままではありませんしベストコンディションではないけれど「そなえよつねに」を心がけたいものです。

2023/02/05

万博記念公園 太陽の塔の思い出

 万博記念公園のシンボル「太陽の塔の内部見学」に行ってまいりました。
1970年「人類の進歩と調和」をテーマに千里丘陵を切り開き開催された「万国博覧会」の当時の記憶は、ホントにかすかに残っているくらい。
 ホログラムでキラキラした迷子バッチをつけてもらったことや、会場でお財布を拾い届けた事、そして当時は珍しかった多くの外国人さんにドキドキした事です。それでも太陽の塔の内部の様々なモニュメントをはじめ、鮮明に思い出したこともあり、大変楽しい時を過ごすことができました。



当時の印象では「けったいな形で変な顔やなぁ」と誰もが思ってことでしょう、またその造形もなんとも奇妙な姿でしたが、五十数年が経過した今ではその造形の見事さや計算しつくされた姿は立派なランドマークで、堂々とそびえる姿が愛おしくさえも感じられました。
 正面に2つの顔、裏面に1つの顔、そして地下には黄金の顔がありました。
見学会では地下から最上部まで階段で進みながら見学していくのですが、私は先日来の左膝の不調からエレベーターを利用。中間フロアを経て最上階へ。
最上階は左右に大きく手を広げている地点となります。
生命の樹の下部はアメーバーをはじめとした原生生物、そして上部へ行くにしたがって人類に近づいていく様子を表しています。


立寄った当時の鉄鋼館が「EXPO'70パビリオン」となって、当時の様々な情報を展示してくださっています。その巨大な敷地を埋め尽くすような各国のパビリオンの様子をはじめ様々なモニュメント像におもわず当時の記憶が戻ります。
いまでも自宅には数多くのスタンプ帳やバッジにチケット、そしてなぜかわかりませんが、レンガ色をしたサウジアラビアの砂漠の砂が大切に保管されています。


当時使用されていた「千里阪急百貨店」の案内パネルがありました。たしか万博の開幕とあわせてOPENしたお店でその印象的なデザインからパビリオンに間違えられたという話を聞いたことがあります。



オープン当時は地下+3階建てでしたが、1982年頃に増床し6階(売り場はB1+1F~5F)となりました。色々とご縁があった千里阪急はとても思い出深いお店です。
久しぶりに店内に入りましたがすっかり様変わりしていました。隣にある千里セルシーは老朽化で立ち入り禁止状態。今後どのような開発がされるのか見守っていきたいものです。
WXPO’70の入場料は大人800円(満23歳以上の者)・青年割引入場券600円(満15歳以上23歳未満の者)・小人400円(満4歳以上15歳未満の者)という区分以外に、特別割引入場券があり大人300円・青年200円・小人100円だったようです。その定義は「身体障碍者手帳」「戦傷病者手帳」「被爆者健康手帳」を所持する者および身障者手帳の日本国有鉄道旅客運賃減額欄第1種を所持する者の介護者1人は年齢により当該料金を適用。
第二次世界大戦が終わり、日本国土の都市部をはじめ様々な地域ががれきと化して僅か25年しか経過していないこの時代によく開催できたものです。この頃はまだ、阿倍野の近鉄デパートと国鉄天王寺をつなぐ陸橋に、ボロボロの軍服姿の方がアコーディオンを弾いていたり筵の上に座っているかたが見られた頃。そして100年前の1870年は明治新政府はまだまだドタバタ騒ぎの真っ最中で廃藩置県の1年前。稲田騒動も勃発した年。
日本は何度も占領されかけた経緯があります。

日本は第二次世界大戦後、アメリカの統治下におかれましたが1951年のサンフランシスコ平和条約締結をもって日本にその主権が戻りましたが、アメリカの思惑通り日本をアジア方面の最重要基地とした位置づける代償として米軍基地/沖縄の統治を続けるままに、1950年に朝鮮戦争が勃発、いわばアメリカとソ連の代理戦争で日本は警察予備隊を発足し部分的に参戦しこれが自衛隊につながっていく・・。
本当にわずかな期間で日本が大躍進をとげEXPO’70が開催できましたが、様々な思惑があったことでしょう。さて2025年4月13日から10月13日まで開催の大阪万博ではどのような思惑があるのでしょうね。万博記念公園のように「素晴らしい遺産」となることを願ってやみません。

2023/01/20

あれから10カ月・・。

 大好きな母が亡くなってから10ヶ月が経ちました。

朝夕欠かすことなく「おはよー」「行ってくるねー」「ただいまー」「おやすみー」って声をかけても写真の中の母は満面の笑みで笑ってるだけ。

お休みの日は出来るだけ、一心寺さんと四天王寺さんへ参拝し母を偲ぶけれど、それでも心に空いた穴は埋まりそうにありません。

去年の今頃は特養からの連絡で差し入れのお菓子やおやつも色々と制限され始めた頃。
面会もコロナのせいでなかなか融通が利かずに寂しい思いをさせてしまって・・本当にごめんなさい。

誤嚥性肺炎で21年10月にも入院した経緯がある母。
1年前の22年1月21日の23時前に、救急車で運び込まれた時、なんとも嫌な予感がしたけれど無事2月24日に退院。寒さの和らいだ日に、お花をもって病院まで駆けつけたとき、すごく喜んでくれて一緒に「Vサイン」して写真を撮ったよね。

そしておよそ1カ月後に母は永眠。。本当に寂しくてたまらないよ。






2023/01/15

新・幕末史 完全版(1/3 BS放送)を見て 3

「大政奉還」1867年、徳川幕府が朝廷に政権を返上、この裏ではイギリスとロシアが覇権争いで大きく関わっている。小栗忠順日記では国際外交上にも関わるために政権を天皇へ返上と記されている。

幕府とロシアで国境線をめぐり争っている最中に、ロシアは樺太へ実効支配のために多量の兵士を送り混んでくる。海軍元帥コンスタンチン・ニコラエヴィチは英国が侵略してくると進言することによりサハリン全土をロシア領にするべく動く出す。
これに対し英国パークスも対馬事件があるためにロシアに乗り込まれることを防ごうとする。まさに大国同士の互いの不信感が幕府の存亡に影響を与えたことになる。
この中で強兵を進める小栗忠順は兵器強化をもとにフランスに武器を発注し支援を求めている。
まさに英国、ロシア、フランスの三つ巴。そこで英国パークスは幕府の資金源を止めるために英国銀行から日本への融資を停止することを決定、反幕府勢力をおさえきれずに大政奉還に進んでいく。
1868年、徳川慶喜とパークスは会談を行う、英国側の記録では日本の混乱を収拾できるのか?という質問を投げかけており慶喜は自分の身をもっても収めなければならない。と返答。これにより小栗忠順は幕府の要職を解かれ農村で塾を開くが、わずか40歳で新政府軍に捉えられ処刑。

「鳥羽・伏見の戦い」1年5ヶ月続いた戦争の起点。その裏では各国外交官が熾烈な争いをしていた。
旧幕府軍が発射した砲弾は四斤山砲(フランス製)から発射。2月16日にパークスの要請で各国の代表が集まり会談を実施(英国、フランス、アメリカ、プロイセン、オランダ、イタリア)。この時点では長州、薩摩は国際的には反乱勢力。。
 国際法の取り決めに関してパークスは局外中立を宣言することを宣言、これにより幕府、反幕府に対して武器供与などはできなくなる。3日間の会談の結果、パークスは「フランスが徳川を支援すれば新政府は外国人を保護しなくなり大混乱が生じる」と発言。幕府が開港地である函館、横浜、兵庫、長崎の外国人を保護していたが戊辰戦争により長崎、兵庫は新政府軍が実効支配している。これらにより自国民の保護を優先する局外中立宣言を1868年2月に発した。そして5月に江戸城無血開城となる。

「奥羽越列藩同盟」1868年。19世紀後半の指導者オットー・フォン・ビスマルク首相は近隣市諸国を制圧、鉄血政策を推し進め、東アジアへの進行を目論む。
プロイセンが独自に戊辰戦争のキーとなる、会津藩、庄内藩を守るために結成された「奥羽越列藩同盟」を予想している。新潟の激戦区の朝日山の戦いではエンフィールド銃(南北戦争で活躍)の銃弾が発見された、本来は軍事物資は表立って軍事援助はできないはず。そこで独自で動いていた各国武器商人は新潟を開港、武器商人が新潟に集結する。特にプロイセンの武器承認は暗躍し、武器を供給する。。これはアメリカ南北戦争で使用されたスペンサー銃(連射式)エンフィールド銃などでした。なかでも河井継之助はガトリング砲を購入。(南北戦争で初めて実用化)。

「幻の植民地化計画」1868年 
プロイセンの旧幕府軍への接近には大いなる狙いがあった。駐日プロイセン代理公使のマックス・フォン・ブラントはビスマルクに対し、蝦夷の土地は北ドイツとにており150万人のドイツ移民を送ることができると進言。ブラントの通訳を務めるハインリッヒ・シュネルは松平容保と会談。列藩同盟に接近する。シュネル銃を米沢藩主へ最新兵器として贈呈。そしてシュネルは列藩同盟の軍事参謀になるまで信用を勝ち取り、会津藩、庄内藩は蝦夷の土地を担保にシュネルに資金援助を依頼、これに応じれば蝦夷の土地を99年間担保として手に入る事となる。
しかしビスマルクは蝦夷の植民地化には実は消極的で経済的なメリットを疑うだけではなく他の国々との軋轢を懸念、英国からの支援が求められることを前提に交渉が開始。

駐日イギリス外交官アーネスト・サトウが西郷隆盛と接触し新潟港の海上封鎖を提案。これにより旧幕府軍は武器の供給が停止することとなる。しかも海上封鎖は国際法上問題がなく、批判を受けることがないと進言。1868年9月、新潟港を封鎖、上陸作戦を決行、占拠する。容保公に援軍を連れて戻ってくることを約束したシュネルは戻ってくることはありませんでした。11月6日会津藩降伏。これによりプロイセンの蝦夷地植民地化計画は中断となりました。

「箱館戦争」1868年

旧幕府軍開陽丸 旧幕臣榎本武揚は五稜郭を占拠、新政府軍と対峙。
英国パークスはロシアが榎本武揚との約束により蝦夷に南下してくるのでは?危機感を覚える。内戦を終わらせることを希望するパークスは、横浜港に停留している幕府がアメリカから購入するはずであったストーンウォール号に目をつけた。諸外国の中立宣言により引き渡しできない状態でした。機能は開陽丸を遥かに上回る機能の軍艦。1869年1月18日に再び開かれたパークス主催の諸外国外交官の会議では、局外中立を終了し新政府軍に与するべきと進言するもプロイセンは榎本武揚率いる函館により内戦終了は時期尚早と受け入れない。
徳川将軍が降伏した以上、榎本武揚は逆賊、反乱分子にすぎないと説き伏せ、局外中立は撤廃される事となった。ストーンウォール号は新政府軍に引き渡される事となった。6月には新政府軍の艦隊により函館は鎮圧される。6月27日榎本武揚降伏。「我らは薩長に負けたのではない、英国に負けたのだ」と談。

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日本が動乱の中、国外からどう見えていたのか?何を考えていたのか?のわずか一部分かもしれませんがまだまだ興味は付きません。明治政府になり様々な外国の支援を得て鉄道や製糸場、日本国憲法など諸外国の影響を受けて進んできた日本。

戊辰戦争後や第二次世界大戦後など本当に植民地化されなかったのは奇跡なのでしょう。
先人の働きに感謝です。

※録画を見ながらの記述に付き誤字などはどうぞご容赦。