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2025/05/18

2025 05/18 阿倍野神社〜北畠顕家

 先週、吉野神宮へ参拝した際に宮司さんから質問をされました。「後醍醐天皇にどんな印象を追っていますか?」・・大変難しい質問です。
金峯山寺、吉水神社、そして如意輪寺を参拝し、後醍醐天皇の苦難の道のりと負けない心、そして「不撓不屈」の心を学びました。その理想を叶えるべく尽力された楠正成をはじめ北畠顕家など多くの有力な方々に支えられたということは、大変な魅力のあった方なのだと推察いたします。
私が生まれ育ったこの大阪の地、まだまだ知らないことがいっぱいと気付かされたのは今回訪問いたしました「阿倍野神社」です。後醍醐天皇に使え、足利尊氏軍とこの阿倍野の地で戦をまじえわずか21歳で命を落とした北畠顕家をお祀りしている神社です。

なかなか行きにくい場所にある神社という印象でしたが、実は駐車場ありのわかりやすい場所にあります。今回は天王寺から出ているちんちん電車「北畠」から15分ほど歩きました。
土地柄、大きな家が多い場所と住吉高校を通り過ぎると大きな鎮守の森が見えてきます。



NHKの太平記が放映されたとき、この北畠顕家さんを演じたのはなんと「ゴクミ」!
相当な美形であったのでしょう。


鎌倉幕府を倒し、天皇集権国家を取り戻した後醍醐天皇。しかし皇位継承における持明院統と高台寺統のいざこざから、南朝、北朝樹立・・建武の新政における理想とのギャップ、2度に渡る島流し、比叡山、吉野山へでの政治等・・。いろんな出来事で苦しんだ主君を支えた家臣たち。




阿部野神社の境内には、物事を興し成功へ導く「旗上稲荷社」、芸能関連の上達を祈る「旗上芸能稲荷社」他、数多くお祀りしています。

いままで、幕末関連に興味をもっていましたが、この南北朝時代を挟んだ、鎌倉時代と室町時代の面白さに気づいたかもしれません^^


2025/05/12

2025 05/12 吉野散策〜吉野神宮・金峯山寺・吉水神社・如意輪寺

私の飛び石GWは今日が最終日。ということで日頃参拝できない「吉野神宮」へ行ってまいりました。
当BLOGで何度か登場した後醍醐天皇、楠正成や建武の忠孝、鎌倉幕府、足利尊氏、南北朝時代・・・等、私の理解の及ばぬ時代。でも君臣湊川をはじめ時代を大きく動かした素晴らしい概念は私のポリシーでもあります。
誰しもが考えが行き詰まったときに救いを求めるのは至極当然。そんなときに「不撓不屈」の精神を与えてくださったのが今日、参拝させていただいた「吉野神宮」です。






武士の世を改めるべく鎌倉幕府を倒し建武の忠孝、新政をおこなうも足利尊氏の北朝と対立。後醍醐天皇は京都から抜け出し、吉野に逃れ南朝を興し以降、南北朝時代は、約60年にわたって続き、後醍醐天皇の死後も、南朝は存続。足利義満の南北朝統一まで続きました。

後醍醐天皇は吉野に移り僅か3年で病により崩御されましたが以降60年以上が吉野を中心に南朝がつづきました。

この一目千本と言われる吉野山から、いつか京都へ戻り復権するんだ!そんな気持ちであったことでしょう。

身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん

吉野神宮も当尾陵も北を向いてい作られていました。

如意輪寺の上部にある後醍醐天皇陵は、若葉薫る緑でイキイキしてました。その陵の前で「不撓不屈」でいられるように手を合わせました。


※神社の参拝の方法には色々ありますが、後醍醐天皇が南朝を開いた書院のある吉水神社さんは初の参拝方法でした。






2025/05/11

第8回大阪府職場・一般吹奏楽フェスティバル

2025年5月11日にフェスティバルホールで開催された「第8回大阪府職場・一般吹奏楽フェスティバル」に行ってまいりました。
開演10分程度前に到着、全席自由席につき2階中央上手側前部を確保。
 大阪フロンティアバンド、さやかシンフォニックウインズ、ワカリヤ吹奏楽団、大阪市民吹奏楽団、堺市音楽団、蒲生ディストリクトバンド、創価学会関西吹奏楽団で第1部が終了し15minの休憩時間を経てO-60吹奏楽団、桃山ウィンドオーケストラ、阪急百貨店吹奏楽団。ここで私の予定時刻となり残念ながら退席しました。

当然、団体ごとに優劣はあるものの共通して言えることは「どの団体も音を楽しんでいること」が感じられる演奏でした。コンクールではないだけに音に心地よい緊張感が感じられるものの、全員が楽しんでいることが伝わり、大変よいひとときを過ごさせていただきました。


そして、とても懐かしい曲が・・通称「バラ肉」だそうですね。初めて知りました。
「バラの謝肉祭序曲」は私が中学2年生のときにクラブの全員に「この曲はもう飽きた!」って言わせたくらいの曲。不思議と当時の運指が蘇ります。

そして、お目当ての阪急百貨店吹奏楽団の演奏では、おなじみのドラムマーチから「HANKYUコール」や半歩行進!テンポアップして「まさかのギャロップか?!」から3曲目になだれ込みあっというまのエンディング!メリハリの効いた大変心地よいマーチでした。

一つ前の桃山ウィンドオーケストラでは、まさかのチックコーリアの名曲「スペイン」が聴けるとは思いませでした。しかも吹奏楽編成+EBにEGを加えBrassFunk風あり、Jazz風ありの昔風にいえば軽音楽。キレのよいBrassに考え抜き、その練習量が見えるソロ各位。

その一つ前のO-60吹奏楽団は、派手さを出すのではなく、丁寧に、、より丁寧に音が紡がれた好印象な団体で・・第1部では、「こんな難曲を出してきたなー」や「さすがやなー」って感じられる演奏ばかり。気になった団体も数多くすこしずつまた音楽に復帰できればと思いました。お疲れ様でした。

2025/05/06

久保惣記念美術館

GWもいよいよ終わり間近。お気に入りの美術館に行ってまいりました。実はこの美術館は昨年も同時期に訪れており、年2回くらいのペースで通っています。
ちなみに昨年は「源氏・応挙・若冲」そして今年は「浮世絵の黄金時代 蔦屋重三郎と写楽・歌麿」です。



この会期は大阪万博と合わせて令和8年3月22日まで5回の会期にわけて「浮世絵」を様々な切り口で紹介していただける展覧会が開催されています。



浮世絵の素晴らしさは構図や色使いや技法の見事さだけでなく、遊女や役者絵、風景や日常を切り取った絵など様々ですが、ちょっとしたコツがわかると、ある意味謎解きのような楽しみ方ができます。遊女の簪や笄、着物の模様に隠された紋や背景の小物、風景などでテーマを表現しています。遊女だけなのか?禿は?お付きの下女は?男性の髪型や髻は?そんなところから絵が言いたかったことを推察することができます。本来摺物なので線描のはずが、輪郭線のないモチーフがあったり、どうやって多色摺りしたのか?頭を撚る浮世絵も沢山。
この久保惣記念美術館は指定作品は写真OKなのでわたしも何枚か撮影させていただきました。
五人美人愛敬競松葉屋内喜瀬川

実は、昨年は宮本武蔵書の「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」を撮影させていただきました。
枯木の先端に気配を殺しながらも鋭い眼光で獲物を待ち受ける百舌。その枯木を這い上がる虫。時間が止まったような静寂の世界を、一瞬で獲物を仕留める鋭い嘴が静寂を破りそして何事もなかったかのような静寂に戻る・・なんとも言えない緊張感が感じられる水墨画。。



雨上がりの若葉がしっとりと濡れ、いきいきとしたお庭の表情も素敵でした。




これら以外にも洋画のスペースにはクロードモネの睡蓮やシャガール、パブロ・ピカソやゴッホ、ロダンの彫刻も間近で鑑賞することができます。
次回を楽しみに久保惣記念美術館をあとにしました。滞在時間は約90分程度。駐車場あり。

2025/05/05

古いPCの活用方法 Ubuntu編

 私のPCの師匠に相談したところ即答でアドヴァイスをいただきました。
その答えは・・ubunto? は?・・なに?それ・・・。という反応な私でしたが
色々と教えてくださり、私の非力なPCに無事インストール終了です!

PC マウスコンピュータ MTーWIN1201EN
メモリ 4.0GB
Intel Celeron N3450 1.1GHz×4
Disk容量62.5GBOS Ubuntou 22.04.5LTS

Ubuntuのサイト(https://www.ubuntulinux.jp/japanese)からUbuntu 22.04 LTSをD/Lし、ISOファイルをTOOLを使ってUSBメモリに入れたあと、PCのBIOSのBOOTメニューをUSBから読み出すように変更します。
無事、起動できたらUbuntuのデスクトップのアイコンから正式にインストールするという流れです。

このBIOSの設定に相当難儀しました。色々と触りまくって無事起動完了。

この非力なPCだとWINDOWSは動かないけどUbuntuならサクサク!
ブラウザはChromimを入れてこのBLOGをさっそく書いています。




2025/05/03

浄瑠璃寺と恭仁京

 この3月20日で大好きな母が入寂し丸3年が経ちました。この木津市にある浄瑠璃寺は母の愛した古寺でもあり、私の人生の節目に必ず参拝させていただく大切な場所。今年も訪れることができました。

ご本堂の中には何百年と変わらない阿弥陀仏と吉祥天女さん、お不動さんの両脇に佇む矜羯羅童子さんと制吒迦童子さんがおられ、黙って私の思いや悩みを聞いてくださいます。


今回は大変お世話になった方と一緒に参拝させていただき、この当尾にある「浄瑠璃寺」「岩船寺」「海住山寺」「恭仁京跡」などをじっくりと巡らせていただきました。
新緑の美しい季節に、歴史と伝統ある当尾地区へは、私が小学生の頃にはじめて来たときからすっかりと様変わりし快適で便利になりました。たしかに道中は変わりましたが社寺の空間は変わることがありません。また様々な仏像、磨崖仏は何一つ変わることがありません。

いずれのお寺にもある仏塔もそれぞれ趣が異なり心を惹きつける魅力があります。
特に、海住山寺さんへは、参拝を思わず躊躇ってしまうくらいにい道が細かったのですが、専用道路が敷設され安心して行くことができます。
その昔、ユースホステルをされていたときに利用させていただいた記憶があります。




この当尾は恭仁京を含む歴史ある地域で、話題の平城京の次に遷都された場所がこの恭仁京で紫香楽宮をへて難波宮後期へと繋がっていきます。

何度か訪問にチャレンジしましたが車を駐車することができず断念、今回はじめて来ることができました。高低差の少ない広大な野原が一面に広がり、およそ1300年前はこの地が日本の首都だったとおもうと驚きです!


また会える日を楽しみにしてこの地を後にしました。

2025/04/19

東京散策 忠臣蔵考

 所用があり東京へ。

まずは久しぶりの泉岳寺さん。亡き主君の無念をはらさんと四十七士が松阪町吉良邸へ討ち入った史実。そして御首を上げたその後、この浅野家菩提寺の泉岳寺の殿のお墓の前へお供え、その後、一同切腹するはずが、残念ながら切腹は叶わず、それぞれ各邸へお預けとなりました。

神妙な気持ちで四十七士のお墓へお参りする際に、あら?強制的にお線香を購入?300円?特に惜しいことはまったく無いのですが、なんか違うような。。微妙な心境になりましたが、丁寧に各墓標にお線香を手向け手をあわせてまいりました。



いつもは早朝の参拝のために開いていなかった記念館へはじめて入りました。中でも驚いたのは、「御印の受取書」。御印を泉岳寺へ預けた直後に吉良の使者より御首を返してほしいとの使いがあったことから二人の僧が本所吉良邸に届けた際の吉良側の受取書の現物が展示されています。この泉岳寺の裏手には、大石内蔵助が切腹された場所が、マンションの入口の一角に石碑としてみることができます。

場所を変え浅野内匠頭が切腹された場所へ移動。


おそらく、名物なのでしょう。「切腹最中」を頂きました。

上品な最中の皮に包まれた粒あん仕立てのお団子が入っています。


他にも数か所巡りましたが赤穂浪士関連であれば、本所松阪吉良屋敷跡へ。
今では小さな敷地ですがという地はこのあたり一体の広大なお屋敷であったことは
言うまでもありません。御印を洗ったと言われる井戸や稲荷神社さん、木造などがありました。


今回は他にも、神田明神さん、浅草寺さん、耕書堂跡地、皇居と十指公園を訪問。東京エリアは見どころがいっぱいですね。

さて、「忠臣蔵」をご存知の方はどれくらいおられるのでしょう?おそらく今の40代位を境にして知らない方のほうが多いかもしれません。戯曲として最大数、かつありとあらゆる分野に影響を与えたのがこの忠臣蔵だと思います。
もう、年末に新しく作り直されることもなく昔の映画を再放送する程度。わずか2時間程度の映画サイズでは丁寧に描かれることもなくまた、1年をかけてエピソードを描くにはコストがかかりすぎるからもう現代では無理かもしれませんね。
なぜ、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけたのか?真相はわかりません。また、その処罰として即座に切腹、お家お取潰し、城明け渡しという厳しい処分が降り、お家再興も叶わず・・そして家老の大石内蔵助らは翌年の年末に主君の無念を晴らそうと吉良邸に討ち入り、御首をあげて、墓前にお供えをし・・数カ月後、1名を除き全員切腹する。。
現代の感覚だと、おもいっきりテロ行為で許されるものではありません。しかし、仇討ちの感覚は古来の日本には根付いており、ようやく明治6年に「仇討ち禁止令」が発布されています。
また、日本人の根付いている感覚を恐れて第二次世界大戦後のGHQは忠臣蔵の放映や上演を禁止しています。
敵討ちはけして称賛されるべきものではありませんが、日本人ゆえの「血の記憶」が、正当性を叫ばすのかもしれません。無念を晴らすために、町人や商人に身を変え耐えて偲んで成就するそんなノスタルジックな部分が私を熱狂させるのでしょう。フィクションだけど「天野屋利平」「赤垣源蔵徳利の別れ」「三村の薪割り」「高田馬場の仇討ち」や「最後の忠臣蔵」や「決算・忠臣蔵」なんかも大好きです。
きっかけはなんでもいい。だからぜひ忠臣蔵に興味をもつ方々が増えることを切に願っています。


2025/03/16

十人十色が如何に変化しているか。。

私が流通関連の仕事に就いた時によく言われた言葉。
「モノが無い時代は十人一色だったが、今は十人十色の時代だ」と当時の役付け上司に言われましたが、すぐに「十人百色」から「一人十色」へ。

当時、毎週日曜日の11時から60分間に若手が非常階段に集合し、いろんな流通に関する情報を受けるそんな会議がありましたが数年後に迎えたバブル崩壊以降にはそんな言い回しではなく「モノからコトへ」のフレーズが持てはやされると同時に、百貨店では自主編集ゾーンの平場がなくなり、業者へ魂を売り渡すがごとく「売仕ゾーン」とよばれる売り上げから定率契約と、「委託」と呼ばれる仕入れと返品が伴うゾーンが主流になりました。

いかに少ない在庫残高で売上高を向上させるか?の効率の悪しき商慣習についてまわる月末調整や値下げ原資の獲得というテクニックが重要視され売上至上主義から、利益確保が重要視される時代になりました。

 数年後トイザらスが日本へ上陸すると一斉に百貨店の玩具売り場は30%~10%近い値引きで販売、SPAやOMOでアパレル流通とMD手法が転換期を迎えました。

近年では「モノからコト、そしてトキへ」・「モノからコト、そしてトキからヒトとエモへ
」。いかに共感を得るか?なにを媒体として売るのか?というキーワードが必要となった。

「購買心理の7段階」や「AIDMAの原則」ではなく「バタフライ・サーキットモデル」や「エビングハウスの忘却曲線」「アサエルの行動販売類型」「パルス型消費行動」などいかに現代の消費行動が混沌としているか、それでなくても、越境ECに無在庫販売、インバウンドにBtoBマーケット。広告の舞台はSNSに移り動画がもてはやされている。

先日のインテックス大阪で参加したセミナーでも「基本に忠実にすること」が主題であり、正道は奇道に勝るがごとく、三方良しの精神で進むしかないのでしょうね。
隣国からの輸入商品について回る不良品率は何%までならよいのか?という議論は無意味で、限りなくゼロになるように努力することが互いの発展のために必要なことに気づくべきなんでしょうね。