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2010/11/20

2010 11/20 教科書に書かれない幕末史 ~堺事件

明治政府がようやく生まれ、さてこれからというときに起った【神戸事件】でいきなりダメージを食らったおかげで、各国に明治政府が貿易の貿易の窓口であることを専制して伊藤博文さんがようやく表舞台に立ってゆく。岡山藩からこの始末をつけるために悲劇の主人公となった滝善三郎さんが慶応4年2月9日(1868年3月2日)に切腹をし事態は収拾した。ところがまた悪夢が新政府を襲うことになる。
もちろん、この時の世相は攘夷熱が残っているために、以降様々な噂が流れたそう。神戸でフランス兵が錦の御旗を奪って逃げた?やら天保山にフランス海軍がやってきただの・・今回の中止のとなる土佐藩も現在の西区にある土佐藩邸で苦々しく聞いていたに違いない。そんな6日後の2月15日の出来事。

大阪から陸路で堺の町に入ろうとしていたフランス領事一行。ちょうど堺の警備を担当していたのが土佐藩。通行の事前の連絡が無かった為に堺へ入るののを不許可とし追い返した出来事があった。
実は前年12月には開町を行っているので外国人は堺町に入ることは問題ないのだが相次ぐ噂で憤懣していたのか・それとも本当に知らなかったのかは定かではない。さてその夕方、堺湾の測量を行う為に入港したデュプレックス号(フランス軍艦)。2艘の小船で数十人が分乗しそのうちの1艘が上陸をした。
あわてて通報を受けた土佐藩士らは箕浦猪之吉(25歳)を筆頭にした6番隊と西村左平次(24歳)を筆頭にした8番隊が急行した。その16時頃・・通訳もいないフランス兵らと口論になって半ば喧嘩状態に。フランス兵が土佐藩旗を手に取り走り去ろうとしたために、ついに発砲命令が下り4人が死亡、7人が海に落ちて行方不明となりました。

この事件を知った外国事務局の東久世通禮、五代友厚らはきっと「えぇぇ??まぢで?」って言ったのかもしれない。なにせやっと神戸事件のほとぼりが冷めかけた頃にまた、フランスと揉めてしまったのだから。
すぐさま、土佐藩の任務を解き、人足を集めて海中に落ちてしまった兵隊の遺体に30両の懸賞をかけて探させたおかげですぐさま見つかった。きれいな服を着せて大坂に運びロッシェの元に報告に行く。

翌日2/16には土佐藩から届出がされ事後始末に走ることになる。
さてフランスからの要望は以下の通り。

・発砲した20人を日本の責任者の前で打ち首にせよ。
・15万ドルラルの賠償金を払え。
・皇族の中からウエヌス船まで侘びにこい。
・土佐藩主はフランス船に侘びにこい。
・土佐人は外人の為に開いた港や居留地には入るなとのこと。


2/22には沙汰書を発行。
2/23にはロッシェに対し土佐を処分することを報告。

その内容は切腹命令だがその理由は「皇国の為に腹をきることを外人に見せ付けてやれ!」とのこと。まさにヾ(・・;)ォィォィな内容。

さてこの知らせをきいた西区の藩邸にいた土佐藩では、それぞれの隊長、副隊長は責任を取ることとなったが残り16人をどうするか・・で揉めた。「私が責任を取る!」という発言が絶えずついに、くじ引きが行われた。外れた者は残念ながら腹を切らなくても良いというまさに逆なくじびき。なんという忠誠心。恐るべし。
3/23には各藩400人に護衛され、土佐藩邸から、切腹の会場となった堺の妙国寺へ向かうことに。

さて、時はすでに夕方。一番初めに箕浦猪之吉さんが切腹をしたがその様が凄まじかったそう。この辺りは森鴎外の小説の描写を引用する。

*************************引用***********************
呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮った。箕浦は黒羅紗の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。

「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。

 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創にさし込んで、大網を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。

 馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。

「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。

 馬場の二の太刀は頸椎を断って、かっと音がした。

 箕浦は又大声を放って、

「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。

 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭と畏怖とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所に迷った。

 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜した。

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二人目・・三人目・・・そのたびに毛氈が引き直されるが血を吸った土に染み込んだ血はすぐに染み出してくる。ついに12人目の「橋詰愛平」が、今まさに切腹をはじめるときにフランス側から中心の申し入れがあった。この辺りの描写も森鴎外さんの小説を引用する。

*************************引用***********************
次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺が昏くなって、本堂には燈明が附いた。
 フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁した兵卒は駆歩に移って港口へ走った。

 切腹の座では橋詰が衣服をくつろげて、短刀を腹に立てようとした。そこへ役人が駆け付けて、「暫く」と叫んだ。驚いて手を停めた橋詰に、役人はフランス公使退席の事を話して、ともかくも一時切腹を差し控えられたいと云った。橋詰は跡に残った八人の所に帰って、仔細を話した。

*****************************************************

ちなみに、血を吸った服のままで控え室に戻った橋詰を見た8人は切腹をしくじったと罵倒したそうだがすぐに真実は明らかになった。

2/24には外国事務方が天保山沖に停泊中の船にロッシェを訪ねて侘びに行き正式に9人は切腹を免れることとなった。ちなみに賠償金15万ドルラルは3回の分割という約束になったがその後、藩は無くなったので完済したかどうかは不明。

さて11人の死体はカメに入れられて妙国寺の向かいにある宝珠院に埋葬されるが、なぜ妙国寺でなかったのかという理由は色々と考えられる。

やはり世相はまだまだ攘夷。皇国の為に切腹した11人はいわば英雄。無くなった11人のカメは「残念様」と呼ばれ、また使われなかった9個のカメは「生き運様」とよばれたらしい。当時は宝珠院の前には屋台が出て、関連グッズの簪が発売されるくらいの人気スポットとなる。この辺りは日本人のエゴイズムが出ちゃってます。
そこで妙国寺では、7月3日~の三日間に大供養が営まれ9月9日には「英氏割腹跡」の碑が建立されている。
さて、この様子を知った井上さんはその怒りを伊藤と木戸さんに書簡で述べています。
「西洋の言いなりになっている!外国の脅しに乗ってはダメだ。そんなことをすると国家を滅ぼすことになる」というまさに現代にも通じる内容でした。

※この内容は一坂先生の講演を元に私が脚色していますのでご注意ください。

2010/11/17

2010 11/17 アザイズム ~ 戦国鍋テレビ ~

はまりまくってる戦国鍋テレビ!
<シズガタケの七本槍><天正遣欧少年使節>に続きこんどはアザイズム!浅井三姉妹♪

いまならサンテレビのケータイサイトからダウンロードができるみたい。
アザイズム(浅井三姉妹 チームA)/アザイズム(浅井三姉妹 チームZ)/
アザイズム(浅井三姉妹 チームI)/ベー・アンビシャス(兵衛’Z)の4曲!

ちなみに兵衛’Z は黒田官兵衛(ヴォーカル/マラカス)、竹中半兵衛(ギター/ヴォーカル)のユニットです。


<アザイズム>
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/corner/azai/index.html

<お知らせ>
舞台「戦国鍋祭~あんまり近づきすぎると斬られちゃうよ~」大阪公演決定!
●大阪公演
【日程】2011年1月23日(日)
【開演】12:00~/17:00~(全2回公演)
【チケット料金】5800円(全席指定・税込)
【チケット発売日】12月11日(土)
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/index.html

どうしよう。。。。行こうか・・・/(-_-)\ こまった~。

2010/11/14

2010 11/14 高野山参詣

13日に九度山に行ったばったりなのですが今日、14日は高野山へ行ってまいりました。

はじめて奥の院まで行く事ができたくさんの元気を頂いてまいりました。

やはり幕末大好きな私的に「織田信長さん/豊臣秀吉」さんをはじめ各藩諸大名の中でも
「長州毛利家/長州益田家/薩摩島津家/土佐高知山内家」と「浅野内匠頭」さんはきっちり参拝。

お写真も撮らせていただきましたが掲載は悪しからず控えさせていただきます。
さて中でも私がお参りしたかったのは「大石順教尼の腕塚」。
無事めぐり合う事ができました。

優しいお顔の慈手観世音菩薩さんが居られ、その前には下記の碑文がありましたので
掲載いたします。


慈手観世音菩薩
この尊像は大石順教尼の発願による慈手観世音菩薩である。同尼が両腕を失って八十一才の天寿を全うできたのは有縁の人々から慈悲の手をさしのべていただいたお陰であると合掌している姿である。
順教尼はもと大阪堀江の舞妓「妻吉」といったが明治三十八年六月二十一日、大坂堀江六人斬りの大惨事のまきぞえで十七才の若い身で両腕を切り落とされた。人間としてこの上ない不幸を負う身となり苦難の道を仏道に求め高野山において出家得度し、その事件の犠牲者の追善と自分と同じ境遇にある障害者を救済することを仏に誓い一生の念願とした。
口に筆をくわえて書画を描くことに専念し日展にも入選するほどその非凡な才能を発揮した。また日本人としてはじめて世界身体障害者芸術家協会会員として選ばれた。
同尼の全国身体障害者の慈母として慕われたがおしくも昭和四十三年四月二十一日京都山科仏光院において入寂した。ここに同尼の遺骨を奉安したものである。


ちょうど高野山は紅葉の見ごろで大渋滞。
すっかり日が暮れてからの帰宅となりました。さすがに二日も続けてのロングドライブはキツイものがあります。それでなくても先月末から頭にかけては萩へ行ってきた疲れがようやく取れた頃^^
おかげで昨夜は爆睡しました。

2010/11/13

2010 11/13 第4回 大収穫祭in九度山

第4回 大収穫祭in九度山が開催されました。


回を重ねるごとに大盛況で、広いグラウンドはすべて出展テントやフリーマーケットで埋め尽くされホントに運営側の熱意には頭が下がるおもいです。
岡本町長さんのお話にも出てまいりましたが、役員、スタッフのみなさんが手作りで運営する点に感激いたしました。
日本一の富有柿の産地、そして真田ゆかりの地の九度山へもう何度来たことでしょう。大阪市内からの道順もすっかり覚えてしまってカーナビを使う必要もありませんでしたww。
さて、昨年はじめてお目見えした<真田蕎麦>。ことしは真田庵の隣に店舗が出来たとのこと、また九度山の名物が増え、ホントに良かったですね。
残念ながら食べて帰る事が出来ませんでしたが、蕎麦が大好物な私、来年の真田祭の際にはぜひ食べてみたいものです^^

今回の出展ブースには、【大坂の陣を大河ドラマにする会】の際にお目にかかりました方々も多数参加されておられ実現に向けた署名コーナーも完備。信州上田ブースもたいへんな賑わいでした。あと、今回は私もすこしだけ関わりのある<柿の石鹸>が販売されていました♪

午後からは、すこし足をのばして【根来寺】へお参りして帰阪いたしました。

2010/11/04

2010 11/4 大石順教尼の世界 口筆による書画作品展 開催のお知らせ

この初夏にお伺いさせていただきました九度山にある大石順教尼記念館様よりごあんないを頂戴いたしました。
この期間中は沢山の作品を見る事ができるそう。
ぜひ一度お伺いさせていただこうと思います。
おそらく沢山の来場者がお見えになられると思いますが九度山の大収穫祭の日になるとおもいます。






そしてまだ知識の無い方はぜひ少し調べてみてください。

心がすぅっと楽になって、頑張る心が顔を出してきます^^

***********記*****************

平成22年11月3日~21日 AM10:00~PM4:30
旧萱野家(大石順教尼記念館)
和歌山県伊都郡九度山町1327 南海高野線九度山駅下車7分


11月7日には大石順教尼の偉業と題したトーク&シンポジウムが開催されます。

http://www.town.kudoyama.wakayama.jp/dd.aspx?itemid=2632

2010/11/03

2010 11/3 アシスト寄席

今回のアシスト寄席は第7回とのこと。回数が重なるに連れてお客様が増えれば良いのだけれど会場のキャパもあるし、そもそもこのアシスト寄席の主旨が長らく高座に掛けていないネタや最近覚えたネタをやってみるという主旨とのことなので、あんまり多数の前でするのもどうかな?と思われ中々悩ましいです。
喫茶店の店舗を利用して開催される落語会なので決して広くありませんし、高座のすぐ後ろにはお手洗いがあるし。しょうがないですね^^

さて、いよいよ開演ということでお囃子が鳴り、颯爽と後ろのお手洗いからマスターがご登場!これは不意打ちを食らった感があり笑いが止まりません。こんな天然系な笑いは卑怯ですってww
マスター曰く「お囃子が鳴ったんで早く済ませなきゃっておもったけど、ついタイミングを失ってしまった」そう^^

旭堂南舟 般若寺の焼き討ち

南舟さんの高座も何度か楽しませていただきましたが、いつもの事ながら本題に入るとスイッチが切り替わったように声に張りがでてくるんですよね。
たぶん奈良の般若寺のことだとおもうのですが講談ではこのような事件があったと扱われていたなんて知りませんでした。


露の雅 鉄砲勇助

女流噺家さんがだいぶ増えたようで私も年に何度か聞かせていただく機会があります。
新しい世界感を築けられたらいいですねー。がんばってくださいね^^

桂枝女太 寄合酒

寄合酒?って割とポピュラーなネタなのに?なんで?ってずっと疑問でした。
あとで聞いたのですが、ホントに初披露だったそうです。
主人公のあの「味噌をするさかい・・・」の件から怒涛の如く続くボケの数々は見事でした^^


旭堂南左衛門 佐野山権平

寛政力士伝の中から品格のある横綱谷風のエピソードの講談。
情け相撲といわれているが八百長試合ではあるものの谷風が行った美談。
圧倒的な強さと品格を誇る谷風が、親が病気で金銭に不自由している佐野山の事を知り情け相撲を取るお話。
佐野山を贔屓にしているタニマチの会話や、格下の佐野山と戦うことになった理由が愛人を取った云々っていう件が笑いを誘います。一瞬、落語の花筏を感じさせるシーンがありました。

笑福亭 仁嬌 宿屋仇

大ネタの部類に入る宿屋仇。
生では桂春駒さんや桂米輔さんでお聞きした事があります。仁嬌さんは数日後に独演会がひかえれているということで、その中できっちり宿屋仇が入っていました。
「いは~ち!」と何度も呼ぶあとにお定まりのセリフがはまりますが、何度も言わせる繰り返しのところがクスリってなるんでしょうねー。
また大宴会、相撲、色事と内容が変化し、ついには小柳彦九郎が登場!そういえば万事世話九郎って名前は怪しいですよねー。
よく出来たお話をきっちりと語ってくださいました。

この後、お店からコーヒーとデザートを出していただきました。
かぼちゃのプリンだったのですが、まぢ!絶品♪甘すぎない上品な味。
ごちそーさまでした。

さて次回は会場が大きくなって、来年1月16日に新大阪イーグルボウルで行われます。
また柳谷観音・泰聖寺講談会は11月23日。今のところ両方参加の予定です。

2010/11/01

2010 10/30 萩旅行

萩市内にて高杉晋作立志像の除幕式があるとの事。大阪より参加させていただきました。
前日に台風接近の中山陽道をひた走り。時折激しく降る雨や強い風が行く手を阻むようでなかなか大変な道中でしたが、萩は私のような幕末フェチにとっては聖地。風雨くらいには負けません^^


萩に到着するとまずは涙松を訪れそのままチェックイン。翌日の除幕式のために体力温存のはずが、つい新鮮なお魚が美味しくって、幕末談義をしながら遅くまで話しこんでしまいました。
さて、翌日の除幕式では龍馬伝で高杉晋作さんを演じた伊勢谷友介氏の参加があるため、早くから多くのファンが詰め掛けていました。
私も会場入りしたのは式典2時間前。で・・すでに50人は来ていましたww
式典の時間が迫る中、奇兵隊が錦の御旗と共に会場に参集。式典のムードを盛り上げます。
と、そのスキに会場の反対側の入り口から伊勢谷友介氏が到着!もう会場はフラッシュの嵐、歓声が飛び交っています。
伊勢谷友介氏の一挙一動に「きゃー~!」って声が響く中、一坂先生が会場入り。私たちだけが「一坂せんせー!」って手をパタパタさせると気がついた先生も手を振り返してくださいました。おそらく、すっごい勇気がいったことでしょう。なにせだいぶ照れて居られたご様子でしたので。
「会場での動画や写真撮影はお断りします」と何度も流れるもののまったく効果なしでもう写真撮影大会。
それでも式典が始まるとピタッとみなさん式典モードでした。市長さんのお話の途中からポツリ・・・にわかにかき曇り、大粒の雨がバラバラ!大急ぎで式典を進めあっというまに序幕式は終わりました。
 午後からの講演会は先着100名とのことで、早々に切り上げて最前列の私たちは人並みをかいくぐり脱出。背後に居られる奇兵隊さんの元へ行こうと移動したそのとき、山県有朋さんが肩を叩かれました。え??山県有朋さん・・・実は、昨日、往環道にある松蔭記念館でお世話になった方がなんと有朋さん役ってことでホントびっくりでした。
そのまま会場へ移動。美味しい昼食を頂いた後講演会場へ到着。関係者席の真後ろをGET♪じっくりと江里先生、一坂先生のお話を堪能いたしました。

その後、限られた時間の中の萩旅行。
各地をお急ぎで回りなんとか下記に行く事ができました。

松下村塾、松蔭神社、伊藤博文旧宅、別宅、松陰先生誕生地、松蔭先生のお墓、玉木文之進旧宅、東光寺、高杉晋作さんのお墓、菊屋横丁、江戸屋横丁、伊勢谷横丁、高杉晋作さん誕生地、木戸孝允さん旧宅、野山獄跡、岩倉獄跡、往環道道の駅、涙松、松蔭記念館、萩博物館・・。

そしていよいよ萩からのお別れ・・・。もちろん涙松を通り楽しかった萩旅行に終わりを告げました。

2010/10/31

2010 10/31 高杉新作立志像建立記念講演会  ~晋作と龍馬

今回の目的の一坂先生の講演会が始まりました。
はじめの15分くらいはちょっと書けない内容ですが、この時は会場から大爆笑や、「え~?」っと言うような驚愕の声で包まれていました。
私もおもわず「え~?そ、それはないやろ・・」と驚きましたwwファン心理ちうのは非常に恐ろしいものです。
さて場内はすでに先生のペース。私の大好きな落語でいうところのマクラはOK。漫才だとつかみはOK状態。

某日、一坂先生の所に某週刊誌から連絡があり、インターネットでのアンケート結果で、大好きな歴史上は?の問いに対してなんと高杉晋作さんが1位になったそう。バブル期には10位にも入らなかった晋作さん。やはり現代人=組織人であり、殿様のために・・と最後まで紛争した姿が近代人の苦悩に重なったのか・・・ちょうど伊勢谷さんの出演された龍馬伝があったからのか。
長州人はいわゆる議論好きといわれている、なかでも松下村塾では色々なお話があったようだが王陽明の影響を受けた松蔭先生は意外と冗談が大好きで色々と文献に載っているらしい。いずれも松蔭先生の面影を感じさせる冗談であり近代の親父ギャグとは程遠いよう。

さてよく一坂先生のところに質問をいただく内容として、《晋作さんと龍馬さんは何度あっているのか?》が寄せられるらしい。
まず初回は会っているかもしれないというレベル。
文久2年 上海より帰国した晋作さんは江戸で龍馬とあっている可能性が高い。ちょうど久坂さんらが、攘夷で異人を切る案件が持ち上がり、土佐藩邸にいる武市に賛同を促す手紙を送る。この中に龍馬の名前があっている。この計画はその後、武市より毛利の若殿様へリークされ寸前のところで中止となってしまう。

2回目は長州にて、高杉さんは扇面に漢詩を書き、ピストルを添えて龍馬にあげている。
文献ではこのピストルは上海土産とされているがその真偽は不明。大村の日記にはピストル購入者の一覧に谷梅之助の名前があがっている。

そして3回目は慶応2年6月。小倉口の戦い。いわゆる四境戦争。薩摩名義の長州の船を返却に来た龍馬に奇襲をさせている。この功により、龍馬は慶親公よりラシャの背広と刀を拝領し、長崎に帰っている。
ということで最低2回、ひょっとしたら3回かもしれないとの事。もちろん龍馬さんは1835年、晋作さんは1839年生まれと年が近く、実は影響を与えた人物が共に吉田松陰先生であることから話しが盛り上がったかもしれません。

龍馬さんは15ヶ月の間に江戸への剣術修行へ出かけていますが、これはあくまでも条件付。
土佐藩に何かあれば組織に加わりなさいということ。実際、黒船の出現で品川の警備につかされている。
この時点では品川には松蔭先生もいたはず。
あくまでも外国の手の内を知ってから攘夷をおこなうという松蔭先生の方針に対し、過激派の龍馬さん。ともに佐久間象山塾に入門する共通点がある。

だれもが戦争になる・・とおもいきや・・なんと幕府は3月3日に和親条約を締結。
そして3月5日には密航事件が勃発。これが原因で佐久間塾はつぶれてしまい竜馬は四国へ帰っている。
《かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂》の松陰先生の句に対し
龍馬は《かくすれば かくなるものと われも知る なお止むべきか 大和魂》と読んでいる。

さて晋作さんは16才の2月に若殿様のお付として江戸に行っている。
そして松蔭先生の密航事件を知るわけだから、おそらく藩邸はその一件でごった返しているはず。
実は晋作さんはこの時点で松蔭先生と密接な関係がある。
松蔭先生が師事していた、晋作さんのおじさんにあたる「田上宇平太」(洋学者)が帰国することになり、佐久間象山先生を紹介いただき入門しているから。
晋作さんはあくまでも内戦により幕府崩壊をつぶすことを考えており、これは中岡氏の「時勢論」に影響を受けている、すなわち晋作さんと龍馬さんは方針が違いすぎるわけで双方のコミュニケーションは無かったのではないかと考えられる。

そんな晋作さんも亡くなる4ヶ月前の父に宛てた手紙では「親不幸ばかりすてきましたが唯一の孝は、孫を残せたこと」と書いている。
また直前には「萩に帰りたいが、かごに乗って帰る体力はもう残っていません。蒸気船が見つかったら帰りますのでひょっとしたら突然帰国するかもしれません」と送っている。
自分の命の灯火が尽きることをしっていたのでしょう。

※文章は一坂先生の言われたことを元に私が脚色している箇所がありますのでご注意ください。

やはり一坂先生のご講演は非常にわかりやすいことで大人気の様子。終了後30分以上たってもファンに取り囲まれていたちょっぴりはにかんだ一坂先生のお顔が印象的でした。
もちろん、江里先生とおなじおく、晋作さんの像の前で記念撮影をしていただきました^^

2010 10/31 高杉晋作立志像建立記念講演会 ~立志像ができるまで

午前中に開催された除幕式に続き、会場を変え萩博物館の講演会室にて銅像を製作いただいた江里敏明先生と一坂太郎先生の記念講演会が開催されました。

江里先生は通常公開を行わない銅像の製作工程を全て写真に映されており、今回の講演会ではその写真を元に解説をいただきました。
江里先生と、この萩の関わりは、6年前に開府400年記念で毛利像を作成したことに始まります。

さて、今回の高杉晋作像は、ポートレート等で有名な散切り頭ではなく、月代、ちょんまげ頭に紋付、袴に刀を携えた像で、これは20代前後をイメージされており、昼間は明倫館へ、そして夜には松下村塾へ通う若かりし高杉新作さんです。

【工程】
2009年6月に依頼があり、打ち合わせの後、イメージ膨らませてスタンド付の針金の芯が完成したのが2010年1月~2月。
そして2月末より粘土で肉付けをしていかれますが、このときの高杉さんはなんと裸像。
その肉体美は現代の男性の筋肉美に大差ありません。
この時点で粘土の重さは400キロ!そして次の工程ではこの裸像に草鞋や袴を付けていかれると同時に随所に芯柱を入れられます。
そして4月半ばにはようやく刀を持たせ、羽織を着せてゆかれます。

さてこの段階で当初の完成形のイメージが具現化されるわけですが、先生曰くなにかが足らない・・との事。

なにか力強さが足らないということで、江里先生のされたことは、なんと上半身をつぶして一から再作成。
このお話の瞬間、会場から一斉に「え~~?」という大きな驚きの声が聞こえました。
その後、首の位置を後ろにずらせ、胸を張った姿にされ、これでようやく今回の形となったわけですが時はすでに8月22日。

全体に石膏をまんべんなく振りかけては麻を貼り、石膏が1センチの厚みになるまで延々と続けられます。
次に石膏のそれぞれの端に打ち込んだ鋲から順にパーツごとに切りわけて、パカッと取り出して中の粘土をはずします。
そのはずした石膏の中面にはポリエステル樹脂を塗り、FRPを貼ってゆきます。そして元通り組み立てて石膏を割ることで原型がようやく完成となります。

鋳造所へ運び、その原型の上に覆いかぶさるような型を作成し、銅を流し込む4箇所の穴から一斉に銅を流し込みます。
実は純粋な銅ではなく、銅が90%、錫5%、亜鉛・・などの内緒の配合比とのこと。
冷えて固まったら原型を叩き出す作業でこれが細部にいたるまでの非常に緻密な作業でした。
さて、ようやく完成したら最後は硝酸を吹くことで緑錆を発生させることでようやくホントの完成となります。
この480キロの銅像は台座に2本のボルトで留められています。

最後に、先生より銅像の大半は触ってはダメと言われているが、本当はみんなが触ったほうがキレイに、そして好い風合いが出るといわれてお話は終了いたしました。

この萩博物館には銅像制作時点で型として残ったFRPの像が展示されています。せっかくなのでその前で先生と記念撮影させていただきました。
本当にありがとうございました。

2010/10/28

2010 10/28 像建立記念講演会

松下村塾に通っていた頃の高杉晋作さんの立像(高さ1.8m 台座を含めて3m)が萩の晋作公園にできるそう。除幕式は10/31日。龍馬伝で晋作さんを演じられていた伊勢谷 友介さんもお見えになるらしいです。

■銅像建立記念講演会
10月31日(日)午後1時~3時30分 
萩博物館講座室 先着100名
「立志像ができるまで」 江里敏明(京都:日展評議員)
「晋作と龍馬」一坂太郎 (萩博物館特別学芸員)

もちろん♪台風なんでなんのその♪いってきまーすww
除幕式ってそう滅多に見られるもんじゃなし。

どうぞ台風さん。。。

消えてくださいww

2010/10/24

2010 10/24 めふ乃寄席

毎年、この秋期開催のめふ乃寄席は会場であるピピア売布の開業イベントと重なりますのでスペシャルゲストが来られます。(昨年は桂春団治さん桂雀松さん)今年は桂小春団治さん、春野恵子さんということで特に初めてナマで聞く浪曲にはチケットを入手した前回の時点からすでに興味津々でした。

林家竹丸 桃太郎
すぅっと流した感のある桃太郎。それでも笑い所をちゃんと押さえて居られるため
笑いが頻繁に起こります。なんとなく堅かった場内の空気が和らぎました。

桂阿か枝 百人一首

上方落語家では誰もしないという珍しいお話。
広げてあった百人一首の歌を見つけた。持ち主に順に解説してもらうがその内容を
すかたんに捉えてしまういう話し。
天智天皇、持統天皇と進み西行法師がもともと佐藤義清(のりきよ)であった頃に身分の高い女官との逢瀬から「次は?」の問いに対し「あこぎじゃ」と言われた為に出家したエピソードを持ち出し落語で有名な<鼓ケ滝>の話しを交えながら進んで行きます。そこで百人一首の編纂画ある事をしった西行は・・。

本題もさることながらマクラの「われ泣きぬれて蟹とわはむる」の啄木の歌が耳について離れません。
あ・・ホントは書きたかったんですけど、残念ながら亀の甲羅の上に・・・の時の歌や逢瀬の際の歌のやり取りを覚えられませんでした(;・∀・)


桂小春団治 冷蔵庫哀詩

抱腹絶倒の爆笑ネタ話。掃除機やテレビの話しはおもいっきりあるあるネタ。そして
本題はどこの家にもありそうな冷蔵庫の中身がなんと擬人化したという奇想天外な世界観。
その世界の中で、ハーゲンダッツのラムレーズンアイスとグリコプッチンプリンが恋愛したり、マーガリンとジャムがケンカしたりのどたばた話し。冷静沈着な「ホタルイカの沖漬けはん」がいい味を出しています。
小春団治さんの創作落語にはいつも驚かされてしまします^^


春野恵子 好色五人女樽屋おせんの段

私がまだ子供だった時に朝5時頃から、祖父や祖母が小1時間くらいラジオで聴いていたのを思い出しました。なので浪曲ってすごく懐かしい記憶があります。
麹屋の法事のシーンから始まり、長左衛門が落とした小鉢が原因でおせんの結い上げた丸髷が
崩れてしまいます。そしてあらぬ疑いをかけられて・・。あとは映画を見ているようにイキイキと脳裏に情景が浮かんで参りました。
女流の浪曲士さんの芸にはまったく抵抗が無いのですが、なぜか女流の落語家さんのお話には抵抗があるのは何故だろう?ってふと頭の中を疑問がよぎりました。

林家染左 淀五郎

実は浪曲が終わって舞台が掃けた後にずっと独特な空気が漂っており、それは幾重にも織綴られた繊細な日本映画を見たあとの印象に似ていました。この空気を果たして染左さんはどうするのか?と心配にさえ思った程。まぁものの見事に染左さんの世界へ連れて行ってくださいました。
仮名手本忠臣蔵の初の大役である塩冶判官高貞を演じることになった淀五郎。見せ場である切腹のシーンに込められた強烈なダメだしに込められた意味を皮肉な言葉に込めながらも成長することを願う市川團蔵。そして見事に・・・。

今日のめふ乃寄席は実に見どころ、聴きどころ満載でした。

2010/10/23

2010 10/23 トップリーグ第7節

昨年の4月に初めてラグビー観戦に行き、8回目の観戦です。
今日はトップリーグ第7節。

第一試合は豊田自動織機シャトルズVSリコーブラックラムズ。結果は13対46。

豊田自動織機シャトルズは今年からトップリーグの仲間入りをしたチームでご縁があってキレイな団扇に<織>と書かれた団体の中に紛れ込んで観戦していました。
私はトップリーグの場合は必ずラジオを携帯していて79.5Mhzで太田先生の解説を聞きながら観戦しています。

その解説の中でも頻繁に言われていたのがノックオンの多さでしょう。
ボールを前にこぼさない・・ってそんなに難しい事なんでしょうか。あ・・私は素人なので無理だけどどんな分野のスポーツや芸術にも似たようなチョンボってるとおもうんです。
そのチョンボで流れがブツブツと切れちゃって自滅した感があるようにおもいました。

事前にリコーの15番の「ラーカム選手」の事を聞いていたので自然と目が行ってしまいます。
おもいっきりトライに絡むナイスアシストがあって、後半は怒涛のリコーの攻撃でシャトルズにとっては厳しい結果となりました。

さて第二試合は近鉄ライナーズVSトヨタ自動車ヴェルブリッツ。結果は21対17。
ノット・ロール・アウェイが原因でシンビンとなり2番と9番が抜けたものの近鉄ライナーズが逆転を果たしました。元々シーソーゲームな展開な上に、5m手前からトヨタの波状攻撃を防ぐシーンが何度もありとっても盛り上がったゲームとなりました。
トヨタのアイイ選手がいきなりPGで得点を挙げましたが以降、近鉄に封じ込められてしまったようで残念した・・・って書くとどっちのファンやねん?となりますよね。
トヨタのイェーツさんが出ていなかったので近鉄の応援に加わったのでした^^

ミニFMで私の投稿が読み上げられたんで感激でしたww

2010/10/17

2010 10/17 桜田門外ノ変

今から何年前になるでしょう。ある日、自分にまったく歴史の知識が無かったことに気がついたのは。
せっかく様々な歴史がうずもれている大阪に住んでいながら地元の歴史すらしらないなんてあまりに情けないっておもって、色々と学び出したのがキッカケです。
そんな当時の私が「桜田門外の変」に対して知っていたのは「大老 井伊直弼が桜田門外で過激な武士に暗殺された」だけ。おそらく歴史に興味の無い方々はこの程度の知識しか無いでしょう。

このテーマは「2009 7/18 安政の大獄と井伊直弼」で語られていますのでもう下知識はバッチリで鑑賞しにいきました。それでもこの事件の背景や様々な人とのかかわりと計画が緻密に描かれていてあらためて認識しました。
そして事後にに直接的にかかわった水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士、家族などの関係者が次々と壮絶な亡くなり方をしていくそのシーンは非常にスリリングで何度も目を伏せてしまいました。
実際は井伊直弼を護衛していた彦根藩の者のほぼ全員が切腹や斬首となっていることを考えると、安政の大獄で次々と命を奪ってゆく井伊直弼の命を奪う為にどれだけの命が失われたのかを考えると胸が痛くなります。

■教科書に書かれない幕末史
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/04/2009718.html

13代将軍就任後にすぐさま起こる跡目候補擁立問題で南紀派と一橋派の争いが水面下で繰り広げられるそんな中にまた大問題が勃発。
黒船来航による脅威とその対応問題を幕府のみで処理したのをチャンスとして一橋派は井伊直弼を非難。
ところが謹慎やらで逆襲されてしまう。そこで一橋派は朝廷に働きかけた結果、幕府の頭を飛びこた形で勅状が水戸藩に降りてしまう(戊午の密勅)。この事件の黒幕探しで一橋派に対する執拗弾圧が始まり(安政の大獄)勅状は偽者であるという事で水戸藩に返却を求める幕府に対し藩内では様々な意見が飛び交うことになり、ついに井伊直弼襲撃の話が持ち上がる。狙いは薩摩が3000人を京都へ挙兵、制圧し幕府を転覆させられる。ところが運命は皮肉なもので、了承を得ていた薩摩藩主の島津斉彬氏が急死してしまい島津久光は方向転換をしてしまい、計画はすべて頓挫してしまうことに。

生瀬 勝久演じる高橋多一郎は大阪寺町を抜け四天王寺近くの茶屋で見つかってしまった結果、執拗な追っ手からついにここまでと、壮絶な死を迎える。実際この親子のお墓は四天王寺さんにあり、墓標には<怨霊消滅>と描かれているくらいだからよほど凄まじい死だったのだろう。

■公式サイト
http://www.sakuradamon.com/

2010/10/16

2010 10/16 教科書に書かれない日本史 神戸事件と伊藤博文

菅総理が奇兵隊内閣云々と言った件は色々アメディアを賑わしました。その後国会で色々な議員が幕末の志士を尊敬していることを話したらしいですがその実像を知らないで簡単に言葉にするのは足をすくわれる元となってしまいます。特に菅さんの奇兵隊のイメージ実際とは相当違うようです。特に間違って理解されやすいのは「奇兵隊は倒幕のために組織された軍でもなければ、有終の美を飾り円満に解散したわけでもない」
それでも固執するのは、歴代の総理大臣を8人?(菅さんを入れたとすると9人)排出した長州出身というネーミングは、いわば政治家の一流のブランドなのでしょう。
長州が輩出した総理大臣の中でも誰もが知っているのは伊藤博文氏。この伊藤氏は非常にラッキーな星を背負っていたらしい。

天保12年に生まれた林利助(ちなみに高杉さんは同10年、松蔭先生は元年生まれ)。父である十蔵と村とのトラブルにより萩へ出稼ぎに行くことに。その出稼ぎ先で下級武士(足軽:中間)伊藤弥右衛門に気に入られ、また男子が居ない為に伊藤家の養子となったので伊藤姓を名乗ることとなった。
そしてちょうど世間は黒船騒ぎ。萩藩は幕府より三浦半島の警備をおおせつかっていたので、もちろん伊藤少年も1年間の予定で警備に着いた。その先で赴任してきた来原良蔵に付いて学ぶ機会を得る。さて1年が経過する際に来原良蔵は、伊藤氏の勉強熱心さに打たれ、萩にある松下村塾を紹介したことがきっかけとなり伊藤氏の塾通いがはじまる。そしてまたまたラッキーなことに自宅から数百メートルしか離れていないので熱心に通うことができたらしい。

長州藩はとてもおもしろい藩で、表向きは攘夷を唱えながらも、裏ではイギリスへ留学生をおくっている。その中に入っていたのが伊藤氏。彼には実績が会ったが、それでもネーミング不足だったのか不思議なことに、王政復古の大号令で強引に樹立した新政府。その中に伊藤氏は入っていない。
再度留学を目指すための船を捜すために伊藤氏は下関から神戸に向かい慶応4年1/12に到着した彼が見たものは・・・・・・・・・・・・。

前年12/9に王政復古。1/1に慶喜さんの倒薩の檄。1/.3に鳥羽伏見の戦い、そして1/10に大阪城引渡しが起こっているそんな背景で、行動の読めない尼崎藩(譜代大名)を牽制するために新政府は岡山藩に西宮まで進軍する命令を出した。当時の岡山藩の家老は日置建帯刀(ひきたてわき)。2000名を出兵し西宮を目指したその中の分隊500人が、1/11に大倉谷の宿場を出発し正午頃に神戸村三宮神社辺りを通過したそのときに、居留地から神社側へ行く為に500人の行列横切ろうとしたフランス兵2人。もちろん無礼な話である。滝善三郎(第3砲撃隊長)はヤリで追い返した再に軽症を負わせてしまい、この事件が発端で発砲騒ぎにまで発展してしまう。(神戸事件)居留地を迂回する徳川道を通ればこんなコトにならなかったのに。

さて、この事態をチャンスと捉えたイギリス公使パークスはなぜか激怒。アメリカやフランス公使を炊き付け居留地以外の場所を占領した上に、港に泊まっていた各藩の船を拿捕してしまう。

そんな事態が発生した翌日に登場した伊藤氏。幸いにパークスや各公使と顔見知り。
事情を聞いて仲立ちをしようと向かった結果、パークスはこの事態を利用して新政府と各国の力関係をはっきりさせておきたかったコトを目的に、王政復古から1ヶ月以上経つのに各国へ通知の無いことに苛立ちをもっていたことがわかった。
伊藤はすぐさま大坂にいる東久世通禧(外国事務総督)に会い、事情を説明し、すぐさま神戸の運上所に各国公使を集めて<新政府の貿易の窓口>であることを宣言した。(対外和親の布告)
後にこの働きによって伊藤は外国事務係に就任し、政治の中枢へ入ってゆくラッキーな方。

さて神戸事件に対して外国側は岡山藩から責任者を出して死刑にすることを新政府に要望。
まさか、フランス兵2人の軽症に対して切腹を求めるってどうよ??

各国公使で話し合いが行われ、さすがに言いすぎた感のある弱腰になったパークスに発破をかけて切腹を譲らなかったフランス公使のロッシェ。
その結果が新政府に届きこんな無茶な要望は受理しないだろうとおもっていたが、まさか・・まさか新政府の交渉をおこなった伊藤はこの条件を飲んでしまい、岡山藩から【滝善三郎氏】が名乗りをあげついに切腹することになる。
そして2/9に切腹が行われた。(現在のカネテツの工場の辺り)

現在もその遺書は岡山と神戸の子孫の自宅に残っているらしい。
この様子はアーネストサトウ氏や様々な文献で様子が書かれており、<日本=ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ>のハラキリはこの滝善三郎氏の切腹を始めてみた外国人が比喩した言葉とのこと。

そのときの様子は文献に書かれているが実はそれらの文献にはあまり書かれていない下記の言葉を一番初めに呟いたそう。

「私は遠国の者(おんごくのもの)故、朝廷が外国人を大切に扱う方針になっていたとは知らなかった」二枚舌を持つ新政府を批判した痛烈な言葉。

一坂先生は実はこの「教科書にかかれない幕末史」の講座の初回にこんな事を言われています。

日本を始め世界中の歴史は強者や勝者の歴史。本当はそこのには敗者や弱者の歴史がうずもれています。その歴史を調べる事で事実を知る事ができると。

まさにそのとおり。今の政府も二枚舌にならないようにして欲しいものです。

※注意) この文章は一坂先生が言われた内容に対し、私が文脈を色々と追加した内容です。