1949年の建国直前の中国を記録したカラーフイルムがロシアから多数発見された。
国民党との戦いに勝利した中国共産党人民解放軍が北京入場のシーンから始まる。その映像は何万人もの人々が上気した顔で熱狂的に人民軍の行進を讃え、喜び、激しく手を降るシーンが延々と続く。ようやく中国に安寧が訪れるその喜びと期待を感じさせている。
その瞬間、テレビから驚きのテロップが入る。。。
『この映像は建国後に何十万人もの人を動員して撮影された作り物の映像である』
この録画は中国がソ連の映画技師に依頼して撮影を行った25人のカメラマン。社会主義の樹立を宣言するために作成したとのこと。
1917年のアメリカ映画に長江の風景が克明に清朝末期の様子が描かれている
中華思想に彩られた時代だが実際は1901年に天安門で北京議定調印式が行われ8カ国連合国の戦勝パレードが実施結果巨額の賠償金を払うことを課せられている。
清朝末期におこった義和団の乱(北清事件)では、アヘン戦争以降に続く不遇な待遇からの脱却を目的に結社義和団が『扶清滅洋』をスローガンに外国を排斥、清朝もこれ支持したために8カ国が共同出兵により鎮圧、そして中国の半植民地が始まった。(オーストリア(ハンガリー帝国)、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、イギリス、アメリカ)
賠償金4億5千万海関両のうち、日本の取り分は3千479万海関両(約7.7%)・ロシアとドイツで約半分、フランスが16%、英国が11%弱、アメリカ7%くらい。当時の清朝国家予算の8倍。
租界という自由貿都市が開かれ各国が交易に乗り出し取引が活発化したが中国の利益にはまったく結びつことはなく、苦力(クーリー)と呼ばれる人足としての不遇な扱いを受けていた。また、香港ではイギリスや香港へ中国人労働者(クーリー)を輸出資源として扱っていた。これは黒人の奴隷制廃止の煽りでもあった。
この頃、清朝(清朝総理衛門大臣李鴻章)は近代国家建設を目指して多くの若者を海外留学、特に日本への留学が盛んで、日本では明治維新を成し遂げ第一次世界大戦の頃。Revolutionを革命と訳し、その概念が中国に持ち込まれた。
1903年日本に留学した学生が書いた書籍が上海でベストセラーとなる(革命軍:鄒容(すうよう)18歳)※中国人は奴隷だ。奴隷には自由がなく思想もない 列強と方を並べるとするなら革命しかない。奴隷を脱して自らの主となることだ!
皮肉なことに国費で留学させた多くの若者が清朝を倒す原動力となり、そんな若者を取りまとめていたのがハワイで教育を受け、日本へ亡命していた『孫文』。そして1911年に辛亥革命が勃発、若者たちの思想に感化した清朝の兵隊らが中心となり王朝政治が終焉を迎えた。
映画で有名な日活の創始者『梅屋庄吉』が11月武漢に撮影隊を派遣市記録映画を撮影。孫文の支援者で映画産業を活発化し革命資金として孫文を支援した。清朝は崩壊し最後の皇帝溥儀は6歳で退位した。
1912年孫文を中心とした中華民国が成立。議会制等の国民党が発足。三民主義を掲げ同時に古い慣習が廃止。(辮髪や纏足など)また上海ではファッションも代わりチャイナドレスが大流行。(モダンガール)
1921年7月 上海で13人のメンバーがあつまり非合法組織ができる(中国共産党の発足※ソ連の後ろ盾)都市労働者の革命を目指す。
このころから清朝の残留舞台が台頭し『軍閥』が孫文政治を脅かすために、ソ連を後ろ盾に持つ共産党と手を結ぶことで『軍閥』を排除しようと考え、ソ連より軍事顧問『マーリン』を招聘。軍監学校・軍隊を創設、中共合作をすすめ、その軍監学校では共産党の周恩来がイデオロギー教育を担当、校長は国民党の蒋介石。蒋介石は日本陸軍士官学校で学んでいる。そして徐々に蒋介石は孫文のソ連接近を反対し亀裂が生じていた。
1927年には「革命はいまだならず」の言葉をのこして孫文が死去。翌年、蒋介石は孫文の支援者の娘と結婚することで事実上指導者の地位を確立し、『軍閥』を殲滅。これにより中国の統一が成し遂げられ天安門に肖像画が掲げられた。この革命をソ連は賛美したがが蒋介石はソ連の侵攻や侵略を排斥するために、共産党への弾圧を行っていった。
そこに日中戦争が勃発。
1931年9月、奉天郊外での線路爆破事件をきっかけに関東軍が進軍を開始。
蒋介石は日本に対しては不抵抗制作をすすめ、共産党壊滅を優先、アメリカからの支援を受けて共産党員のすむ地域へ空爆をおこなう。国民党の攻撃を避けるために各地にいる共産党員は中国内陸部へ移動。
国内では共産党との戦いよりも日本軍排斥を望む声が強く民衆の不満は高まってゆく。
十二・九学生運動(1935年12月)が北京でおこり、学生たちが日本打倒を訴えかけたが国民党政府は武力で弾圧、このときに学生たちで歌われた義勇軍行進曲が、中国国歌となる。
共産党は中国内陸部の延安に逃れていた。アメリカ人ジャーナリスト(エドガー・スノー)の訪問に応対した将校が周恩来であり、毛沢東とも出会っている。
1937年 日中戦争。盧溝橋と国民軍が衝突。日本軍が次々と都市を制圧したことで、やむなく蒋介石は共産党とふたたび手を結び日本軍と戦うこととした。(二度目の国共合作)
ソ連スターリンは日本の動きを警戒。
毛沢東は女性や農民を戦力と捉え巧みな戦術を展開。多くの日本人捕虜の様子がフイルムに残っている。
1942年11月 日中戦争6年目のワシントンを宋美齢(蒋介石の妻)が訪問しルーズベルトと会談。議会での演説を経てアメリカの支援を取り付けた。ニューヨークの動物園に二頭のパンダを贈呈。アメリカの軍事支援が実現。
しかし蒋介石は共産党との軍事衝突に備えることで、国民軍の士気は非常に低いことにアメリカ兵は落胆した。
アメリカの延安視察(1944年7月)により共産党の民主的な政策と農民の主体主義や様々な民主的な政策で大変に驚いた。(共産党という名前が似つかないほど)同時に農民の多数は共産党へ参加増大。
1945年10月 日本軍の降伏式典が行われた。国民党軍が参加、共産党軍は呼ばれなかった。
そしてこのあと一党独裁体制へと変貌してゆく。
1945年ー1949年 第二次国共戦争。
共産党軍の毛沢東はソ連の後ろ盾を得て、満州と中国北部で足場を固める。
蒋介石国民党の都市部ではインフレが進み闇市などが乱立、民衆は離れていく
1948年人民解放軍と名前の変えた(共産党)は300万人となり国民党を上回った。
このとき放映されたカラーフイルム映像は戦争後に人民解放軍を動員して再現した映像が流されている。
鄧小平(第二野戦軍政治委員)の姿も見える。プロパガンダ映画である。
南京陥落し国民党の敗北、人民解放軍の入城が映像で強烈に描かれている。
1949年10月1日 中華人民共和国 建国式典開催。
蒋介石は台湾に逃れた。
アメリカでは中国が社会主義陣営に加わったことに不安がひろがり1950年からアメリカ国内でいわゆる『赤狩り』がはじまっている。
1956年国慶節(建国記念日)毛沢東は『百花斉放 百花争鳴』をスローガンとしソ連との差異を打ち出したが、共産党に対する不満が吹き出しこれを共産党は『毒草』『右派』として弾圧を行い55万人以上が思想改造を求められた。反右派闘争の言葉として『中国の知識人には二つの道しかない。声も立てず不条理に逆らわず従順な道具となるか、安全気楽な日和見主義体制追従派になるか。後者の道を行くものが続出した』
1958年毛沢東は社会主義をすすめるために『大躍進政策』を打ち出す。15年でイギリスを追い越すために鉄鋼を強化。農業の集団化により私有財産を没収して生産と行政を一体化する人民公社を設立。遊牧民の定住化を促進。チベット制圧を目的とした軍が派遣された。
農業政策は失敗し飢餓、餓死が増加。生産量の捏造による腐敗が横行。
社会主義における経済発展への道を模索した結果が『文化大革命』(造反理念の暴走)につながった。
1959年4月国家主席が毛沢東から劉少奇に代わったが、上には共産党主席の毛沢東がいる。
劉少奇は現状を調査下蹴った、農業の生産量減少は自然災害でなはく、嘘の報告による人災であると結果付けた。
1962年1月大躍進政策総括の決算に対して、劉少奇は誤りを指摘した。
嘘の報告をしたものに対して処罰。
劉少奇や鄧小平(党総書記)による経済政策の修正により人民公社の縮小と自由売買、穀物の輸入を認めたが毛沢東はこれを革命の堕落と批評、不快感を顕にした。
毛沢東は経済政策空手を放し、死亡説も流れたが1966年7月武漢長江で毛沢東が現役をアピール(遠泳)。
劉少奇の追い出しを画策、その後、機関紙人民日報に毛沢東の言葉が掲載。
<司令部を砲撃せよ。プロレタリア文化大革命は人々の魂に触れる革命である。資本主義野道を歩む実権派を打倒し指導権を革命派に取り戻せ>
ここで言う実権派は毛沢東の経済政策に異を唱えた劉少奇や鄧小平のこと。
1966年8月18日天安門広場で紅衛兵(学生)が集結。早朝にあらわれた毛沢東は『造反有利』(反逆にこそ道理がある)と若者を煽り、文化大革命が始まった。『毛主席万歳』の声が響き渡る。
周恩来が演説。共産党万歳!歴史ある地名や建築物は取り壊され文化財はブルジョワ的で取り壊される。古い思想はブルジョワ分子とされ再教育、そして粛清される。焚書もあいつぎ、党の最高幹部や人民解放軍の英雄(初代国防部長)も処罰された。海外(フランス)では毛沢東を英雄と信じ、アンディ、ウォーホールも絵画題材、『造反有利』はフランス革命の心境を呼び起こし若者が体制を大きく批判した。思想家のサルトルも文化大革命を支持、既存の権力に対して若者たちが疑問を投げかけているのだから自由を勝ち取る上で重要な大きな進歩。
1967年7月紅衛兵は権力の中枢、国家主席の劉少奇を襲う。2年後幽閉先で死亡する。
1976年9月 毛沢東死去。国内で追悼集会がおこなわれ、翌年文化大革命に終了を宣言。先導した4人がさらされて裁判にかけられた。1980年5月劉少奇の追悼式で名誉を回復。
共産党は毛沢東に対して功績が7割、誤りが3割と総括。
文化大革命では1000万人が死亡、被害にあった人は1億人以上と言われる。
最高実力者として鄧小平が選ばれる。
1978年市場経済の論理を取り入れた経済改革を乗り出し、外国資本を受け入れ西洋文化が参入。
GDPは10年で5倍!ソ連ではゴルバチョフではペレストロイカを推し進め情報公開や政治改革を実施していた。社会主義体制が変革、経済自由化が政治の自由に繋がりついに1989年4月に天安門広場で事件が起こる。
胡耀邦は言論の自由を推進し、様々な方の名誉回復に努め民衆の高い支持をあつめていたが、政治的に抹殺され失脚した。そんな胡耀邦元総書記の追悼の花を捧げるためだった。
そして4月26日の人民日報の社説に集まった若者らに対して『民主を旗印に民主制度を破壊し全国を混乱させた。これは陰謀であり動乱である』との記事が掲載される。これに対し、社説の撤回を求めて10万人以の学生が天安門広場に集結。政府との対話を求めたが、鄧小平は1989年5月20日に戒厳令を発し25万人の軍事的な制圧をおこなった。
学生たちは軍部兵隊にも労を労いともに仲間となることを勧めた。この映像を見る限りでは大変奇妙な映像です。
暴力に訴えず破壊行動を起こさず、政府との対話を求めた学生たちの姿は市民の支持を集め、100万人の大人たちも集まってきた。大企業も人民日報や新華社通信、国営放送の社員らも参加した。しかし1898年6月4日午前0時17分装甲車が突入し民衆に発砲。過激化してゆく。午前5時、若者たちは退却した。
世界中のメディアにながされたタンクマン映像の真実はわからない。
5日後、鄧小平は人民解放軍に対して『中国を取り巻く国際環境や国内の情勢によってもたらされた避けて通りことのできないもの』と語った。
共産党100年。激動の100年。これからどう進んで行くのか。