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2010/06/20

◇2010 6/20 町屋寄席

町屋寄席2回目の参加。14時からなのですが12時30分現在ですでに
並ばれていた方が居られてびっくり。それにしてもお役人のすることはこんなものか・・と
毎回驚かされます。おそらくわざわざ来てくださったお客様っていう意識が無いのでしょうね。

笑福亭生寿 :花色木綿

出囃子にのってご登場の生寿さん。
小拍子が用意されていなかったのでいきなりの大アクシデント。たしか前回は
照明がついていなかった。
マクラでは来年ご結婚される婚約者さんとの色々なエピソード話。
本来はマクラのそのままの流れで本題は入っていくのが理想だけれど
今回のこのマクラと泥棒のネタでは明らかに無理!ということで
スパッと切り替えられました。
さて生寿さんの花色木綿は何度か聞かせていただきましたが
今回が一番、イキイキと登場人物が描かれていたように思います。

主人公の泥棒とやもめ。強気な男に大家さん等・・。きっとなんども練習されたのか
高座に掛けられて磨かれるってこんな事を言うんでしょうね。


桂出丸:千両みかん

実は、生寿さんの高座の際に何度も撮影をしている女性が居られてそのたびに
携帯の「チャララーン」って音が聴こえるのです。またその横の男性もデジカメで
フラッシュを焚いて撮影していたので実は頭にきていながらの鑑賞でした。
で、もし次の出丸さんの時にも同じ事があるのなら・・・と考えていた矢先に
出丸さんがデジカメをもって高座へww
で高座から客席を撮影したのでwwwヾ(・∀・;)オイオイ。
たしかにお客さん演者を撮影しちゃダメだけれど逆は良いんでしょうね。
まぁ初めてのパターンなので驚きました。

季節のお話<千両みかん>きっちりとツボを押さえた演出で
なかでも、若旦那が蜜柑を食べながらのシーンでは、ぐっと引き込まれました。

2010/06/19

◇2010 6/19 教科書にかかれない日本史~兵庫開港

今日のお勉強会では前半は《奇兵隊内閣について》のたっぷりと光と影、そして色々な裏話を聞かせてくださいました。
この内容に関しては某週刊誌に記事が掲載されるということなので内容に関しましては発売後に記載させていただきます。

さて、孝明天皇の崩御 (慶応2年12/25 1867/1/30)によっていろんな歯車が動き出し、いよいよ幕末のクライマックスへ。

日米和親条約(嘉永7年3/3 1854/3/31)についで、日米修好通商条約(安政5年6/19 1858/7/29)の中で記された中でいまだに実現しない最後の案件であった「兵庫開港」問題。
兵庫は京都に近いことから孝明天皇は最後まで勅許を出すことなく崩御。
そして16歳で新天皇となられた明治天皇のご意見ははたして幕府寄りなのかそれとも倒幕寄りなのか。
ここぞと猛アタックをかける慶喜さん。なんども勅許を願い出てついには自分自らが直接御所へ乗り込んで開港の意義を唱え、勅許を得てしまう。(慶応3年5/24 1867/6/26)

当初、兵庫開港要求事件で諸外国と約束した期限は1863年。
とうてい間に合わないということで1862年に文久遣欧使節を派遣し、5年間の延期の約束をとりつけたので慶応3年12/7(1868/1/1日)となった。それでも幕府に残された期限はあとわずか。
大急ぎで体裁を整えようとしたが兵庫はすでに村があった為、その東隣の神戸に港を開くことで決定し大急ぎで普請をおこないギリギリで間に合う。


さてそんなドタバタのなかでも同時に行われていたのが大政奉還(慶応3年10/14 1867/11/9)。
政治を行う実権を天皇へ返し、合議による新政府が出来るまでは幕府が政治を代行するという内容。
慶喜さんは、いったん政権を返上し新たに合議の上でTOPになればいままでの政権を維持できると考えた。

そんな中で薩摩や長州は、慶喜さんがすでに新天皇に兵庫開港の勅許を得たということでこのままでは天皇が幕府側についてしまうと考えた。そこで打たれた次の手は。。。
武力倒幕として京都御所付近を固めた反幕府軍。新天皇による王政復古の大号令(慶応3年12/9日(1868年1/3日)を得ることに成功。これにより合議制で新政府の話しは吹き飛んでしまい徳川色を排除し、薩長が政治の中心となる新政府を樹立。
新政府は合議制ではなく、むりやり薩長が毟り取ったイメージなのか。

2010/06/16

◇2010 6/16 霧しな蕎麦


たしか5月末頃に兄からいただいた赤いラインの【霧しなそば(特製つゆ付き)】。
その美味しさについネットで注文した青いラインの【霧しなそば】。

今月の6日に到着して今日16日には残すところ最後の1袋となってしまいました。








実は今日のお昼にいただく予定の霧品蕎麦に合わせる
天ぷらをスーパーへ買いに行ったときにふと立寄った売り場。

「えへへ~ここにあるやん!」ということで【木曽路御岳そば】を発見。
おんなじ(株)はくばくの製品なんですよねー。


ラッキー♪

たしかに、そこらの生麺、半生麺を凌ぐその味と香りNO.1だとおもいます。


★【贈り物にも最適】☆霧しなそば 16食(8袋)★

2010/06/12

◇2010 6/12 信太森葛葉稲荷神社

安倍保名と葛の葉の悲しい恋物語~




大阪阿倍野に住む安倍保名はお家再興の願いを掛けて当神社へ日参されていたそう。

ある日岐路に着く時に狩人に追いかけられている手負いの白狐を助けたのがきっかけで

その狩人に争いになり、気がつくと狐が化けた「葛の葉」に介抱されて一命を取り留めました。

ある日、安倍保名の自宅にこの葛の葉が訪ねてきて夫婦となり、男の子が生まれました。

この子供が5歳になった時にふと白狐の姿を見せてしまった「葛の葉」。もう人間とは一緒に暮らす事ができません。

口に筆を加えて障子に次の和歌をしたため、信太の森に帰ってしまいます。



~恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる

信太の森の うらみ葛の葉~



葛の葉を探しに子供を抱いて探しにきた安倍保名が見たものは今まで無かったはずの

葛の葉っぱが神社一面に繁っていたそう。

この子供が

後にあの有名な陰陽士の安倍晴明となります。





今では宅地の中の神社ですが、その大きな敷地の木々の間にに点在する祠が、

その神秘さを感じさせてくれます。


日本には八百万の神々が居られるといわれていますが、この神社のる祠には滅多に見かけない神様のお名前も多数見ることができ、「福玉大神」(胃の神様)、「格賀明神」(道案内の神様)、「千代一大神」「千代丸大神」(出世の神様)、「猿彦大神」(肩こりの神様)、「樋口大神」(集金の神様)、「末光大神」(目の神様)、「石切剣箭」(できものの神様)、「厳島大神」(足の神様)、「」()、「」()、「」()、等、それぞれの役割が書かれています。またお庭には利休寄進の灯篭をることができます。



また<姿見の井戸>は葛の葉姫が化現した時に鏡のかわりに姿を写したという井戸がありました。これは

葛の葉姫が無事にこの森に帰り着いたということで交通安全を願う方が多いそう。

2010/06/10

◇2010 6/10 太融寺

久しぶりに梅田方面に行く機会がありましたので太融寺さんへお参りさせていただきました。


お参りを<ついで>に行くとは・・とお叱りを受けるかもしれないですが正直な表現だと

どうしてもこうなっちゃいます^^



さて太融寺さんはなんといっても秀吉を支えた<淀殿>が眠っておられますので

まず最初に丁重に参拝させていただき、奥の院にある<一願不動尊>へ。

奥にある滝から流れ出る冷たい空気がお不動さんの周りを取り囲んでいるのが

よくわかります。

もちろん、お大師さんにも挨拶をさせていただきましたが実はこの境内のすみっこに

あるお地蔵さんがすごく気になるのです。



私が発見したのは約3年前。

当時は前掛けなどもなく、その形状を見る事ができましたが今はキレイな前掛けを

してもらっていますので持ち物を見てとれることができません。なので当時の写真を使用します。

右手にはおしゃもじ・左手にはすりこ木を持たれて、ユーモラスに微笑んでおられます。



おそらく九州南部で見られる【たのかんさぁ】(田の神様)ではないでしょうか?

社務所の方でも、いつから居られるのか?等は一切わからないそうでした。


心を癒してくださるその表情がステキだとおもいませんか?


※場所は淀殿の横の白龍明神祠右側のちょっとした空間に居られますのでぜひ会いに行ってみてください。

2010/06/09

◇ 2010 6/9 霧しな蕎麦

先日、私の兄夫婦から乾蕎麦をいただきました。
麺類大好きな私にはピッタリのお土産でさっそく頂きました。

実は妙なこだわりがありまして、蕎麦にしてもおうどんにしても同様に生麺や半生タイプの方が、
乾麺よりも美味しいというのは絶対に間違いです。
とくに値段だけ一丁前な商品もありますが、デイリーフードなだけに妙に高額なのも私的にはNGです。
またいろんなお店で頂くこともありますが、一長一短。




で、兄夫婦からいただいたお蕎麦は絶品、即パッケージからメーカー名を
調べて1箱注文。着荷してからはハイペースで頂いています。
一緒に、きゃらぶきの炊いたのや山菜の煮物がぴったり!
1人だと大鍋に沸騰させた熱湯で美味しく茹でることができますので
さらに美味しく頂けます。

★今回買ったお蕎麦はこちらです。★


 

2010/06/05

◇ 2010 6/5 御寺 泉湧寺

堂内の天井には龍、そして裏堂裏には白衣観音像が狩野探の筆で描かれていました。ただ残念なことに


修復の為三尊佛の釈迦像がパネルとなっていました。

また毎年3月15日から17日には「大涅槃図」が掲示されるとのことで、この大きさは超巨大とのことです。



さてこの泉湧寺への参拝目的は孝明天皇様へのお参りが目的なので

とりいそぎ、まず月輪陵へご挨拶に参りました。



宮内庁の掲示の二十数名のお名前の中には孝明天皇様の

お名前がありません。どうやら後月輪陵に眠って居られるということで探してみましたが

境内のMAPにも書かれていません。そこで山門受付へ戻りお伺いすると、月輪陵のちょうど後ろに

円墳でお1人でお祀りされているとの事。10分少々の砂利道ということで参拝は諦め、

心の中で孝明天皇様へ哀悼の意を表し、公室のお寺「泉湧寺」の落ち着いた厳かな雰囲気を後にしました。

◇ 2010 6/5 観修寺 佛光院

いつも京都へ行くのは億劫な気持ち。基本、車で移動しますので、あの道中の渋滞でいつも閉口します。
しかし今回は第二京阪開通と言うことでちょっとだけ気合いを入れて珍しく京都方面へいってきました。

目指すは観修寺と御寺泉涌寺。

門真から第二京阪分岐して、まったく減速することなく、小椋池へ。阪神高速京都線を経てあっというまに城南宮北に到着です。ここまではすごく順調でしたが市内に入った途端にピタリと動かなくなりましたが、
それでも名神よりもうんと早く到着できたんじゃないかなとおもいます。

さて、目的の観修寺町(かんしゅうじちょう)にある観修寺(かじゅうじ)に到着。
このお寺は優美、かつ幽玄なお庭で有名で沢山のカメラマンさんが来られていました。
写真のとおり、大きな池に無数の蓮や水仙、鴨や鷺が羽根を休めています。

お庭を出てすぐ横の『佛光院』が今回の目的の場所。
大石順教尼さんが復興され、多数の方々の心のよりどころとなっている場所で、
昭和11年にこの地に身体障害者福祉相談所を開設されています。

大きなガラスケースに数多くの順教尼さんの遺品を見る事ができます。
【何事も為せばなる てふ言の葉を 胸に刻みて 生きに来し我】

また先週九度山の萱野家で拝見したDVDの中に登場したあのお庭も、目の当たりに見る事ができました。

2010/06/03

2010 6/3 昼食

昼食に梅田駅ビルとホテル阪神地下にある
有名で美味しいと定評のあるうどん屋さんに行きました。



12時にわずか早い時間でしたので待ち時間なく席につき
ぶっかけうどん+おにぎり2個で850円を注文。





5分程度で出てきました。

おねーさん:
「ねぎ、だいこんおろしをのせてからゆずを絞り、このだしをうどんの幅の1.5倍に・・云々・・・・・



わたし:
「え?1.5倍・・そんなんが決まってるんですね。。」
内心・・かけすぎる方がいてるんだろーな・・。と思い

「 んじゃ・・おねーさん、出汁かけてください」と依頼。


おねーさん:
「では先にネギと大根おろしを載せてゆずをしぼってからもう一度お呼びください・・云々」

どうも苦手なんですよねー。
言葉に感情がなく機械的にしゃべられると、意固地で意地悪なわたしの悪い性格が顔を出す。

妙に堅いうどん・・。硬質ゴム風でシコシコ感は無いようだし。
コレってうどんのコシなの?それとも堅いだけなの?

たぶん私が味おんちなのでしょうけれどやっぱ苦手。。
それでも大好きなおうどん屋さんもあるんですけどねー。

2010/06/01

◇2010 6/1 我が家の歴史と大阪大空襲の法要

 昭和20年の1月の空襲に加え、その後、昭和20年3月13日、B29大型爆撃機が100機以上飛来した空襲だけでも6月1日・6月7日・6月15日・6月26日・7月10日・7月24日・8月14日とあったそうです。大阪港区でベビー関連の縫製工場を営んでいた祖父と祖母の言いつけで、私の母は3月13日の空襲後すぐに滋賀県の祖父の本家(近江八幡 市辺村)へ疎開。続いて祖父、祖母も避難してきたそうです。
 当時の家計を支えていた商売道具ともいえるミシンとそして古いアルバムを数冊・・そのおかげで今の私がいて次の世代に伝える事ができました。
 1回目の空襲では当時の家の向かい側までが全て全焼。そして6月1日の空襲では私の家も全て焼けて何も残りませんでした。
 戦争が終わって母は、祖父と祖母に連れられて港区の当時の家を見に行ったそうで、焼け野原と瓦礫が積まれている焼け野原に自分の家の冷蔵庫だけがポツリと立っていたのを寂しそうに話してくれました。

  当時港区は大阪から南方に出兵する兵隊さん達のターミナルでもあり、水や食糧を補給する寄港地の役割を果たしておりその労役に従事を強いていた人足として捕虜収容所が存在していました。
  また物資を蓄える倉庫も豊富にあったので攻撃の対象になっていたのでしょう。
 その爆撃でくさんの方々が亡くなられその中には当時の私達家族と親交の深かった方々やお世話になった方々が多くおられたことでしょう。

  2008年3月頃から実家の写真を整理していたら数多くの港区での生活を偲ばせる写真が出てきたのをきっかけに当時の住んでいた場所を探すことになりました。残念ながら当時の家は木津川の中でしたがいろんなご縁で毎年6月1日にこの港区で戦難にあわれた方々の供養塔があり毎年ご法要をされていることを知りました。
 
 戦後50回忌までは慰霊塔の前でしたが以降は西栄寺でおこなわれており、この2008年6月に初めて参加させていただきましたので今年で3回目となります。

2010/05/30

◇2010 5/30 千早赤阪村 下赤坂の棚田

緑溢れる自然のにおいは、土と流れる水とそして田んぼ。
真っ青な空と初夏の陽射し。

今日のこのタイミングは絶対に見逃せないということで
思いつきにように、千早赤阪村の下赤坂の棚田へ行ってまいりました。






棚田近くのコンビにでお弁当でも買って、棚田の見える木陰でランチをしようかなーと
計画して出かけましたが甘かった。。コンビニが無い。

でもそれが普通なんですよね。

何も無い場所だけど、街には無い自然がありました。

◇2010 5/30 楠木正成公生誕の地


月一回のペースで通わせていただいている幕末史の中でも
時々この「楠木正成公」のお名前が登場します。
 
正成公の活躍された時代は1300年頃幕末は1853年(黒船来航)として500年以上も離れています。
 
さて、幕末に登場する正成公のキーワーどとしてまずはずせないのは「君臣湊川」。これは長州藩が打ち出した攘夷実行に対する心意気。
全員討ち死にを覚悟で攘夷に当るという「湊川の戦い」を含めた言葉。
ちなみにこの「君臣湊川」が大二次世界大戦あたりになると「君臣奉國」となりお国のために・・という言葉となったそう。
当時から500年も前の話はちゃんと受け継がれていたのです。
 
ちなみに、歴史ブームの折、「歴史上の人物で一番空きなのは誰?」と問いかけるとまず
「坂本竜馬」でしょう。ところがこの同じ質問を戦前に行うと修身の教科書にも掲載されていた
「楠木正成公」であったそう。時代と共に変化するんですよね。
 
と、前置が長くなりなりましたがせっかく千早赤阪へきたのだから
この「正成公生誕の地」は行かなきゃ。
 
ということで碑を映してまいりました。この碑は明治11年5月。
明治11年5月というと、大好きなチャイ様が4番を初演した年。。近代国家への基礎を
必死で築きあげようと躍起になっている頃です。
 
 
 
やっぱゆるキャラブームの波も押し寄せていました。

2010/05/29

◇2010 5/29 粉河寺


2年前の秋の日に九度山を訪れた日。
朝からの小雨模様がついに本降りとなり、午後から予定していた粉河寺を山門まで行きましたが
あまりの雨の激しさに参拝を諦めた事がありました。
それから中々寄せていただく機会が無く延び延びとなっていました。


 
 
西国第三番札所・粉河寺の御詠歌
父母の恵みも深き粉河寺 ほとけの誓い たのもしの身や

御詠歌にはなかなかご縁がありませんが、大阪梅田にある太融寺さんの山門に
「「補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」と書かれている
石碑があります。なぜ太融寺さんにあるのかハテナですが。。
それでもこの石碑は私の興味をそそるのに充分でした^^

駐車場に停め山門を川添いの参道を歩きます。左手には不動堂・羅漢堂、本坊や出現池を見て
ようやく中門に到達。仁王さんではなく四天王像で、それぞれの
中門正面と背面に、持国天さん(東)・増長天さん(南)・広目天さん(西)・多聞天さん(北)が
居られました。そして 桃山時代の山水庭園の向こう側には威圧度の高いご本堂が。
 
 
複雑な2層の入母屋作りをベースに千鳥破風と唐破風を配しています。
 
日本建築っていいなーっとしみじみ感じる瞬間です。
 
丁寧に参拝させていただきました。

◇2010 5/29 旧萱野家 大石順境尼の記念館

和歌山県九度山町にある旧萱野家 大石順境尼の記念館へ行って参りました。
毎年訪れる真田庵のすこし山手にある旧家を利用した建物のようで、この萱野家は高野山の里坊であったそうです。
現ご当主さんの祖父と順教尼さんと親交があったそうで、「大石よね」さんが出家得度される際の菩提親になられたそうです。




ご親切にお出迎えいただき、山門をくぐりますと、まず土蔵の中で30分弱のDVDを拝見いたしました。そこには順教尼さんの肉声や動画、そして当時の様々な風景を見ることが出来ました。
ひとつひとつの言葉が私の胸に突きするどく刺さります。
一心不乱に見終わったあと・・「いかがでしたか?」とお声をかけていただきましたが、すぐに私たちへのお声かけだとは気付かないで2回目でようやく振り向いたところ、ロマンスグレーの男性が。
この萱野家のご当主さんのようで、自らが色々とお話くださりました。また私たちの後ろには、順教尼さんがご結婚された日本画家の山口草平さんのお孫さんが来られていてご紹介をいただき本当に驚きました。

山口様曰く、順教さんが、口で筆を咥えて書画を書かれていた姿を子供の頃に見て、何度も真似をしたが、よだれが出てしまい出来るはずもなかった・・という思い出を語っていただきました。
その後、建物の中の様々な資料を丁寧に説明。今回、私をこの旧萱野家へ導いてくださった「無手の法悦」の貴重な初版版や直筆のお手紙、現物の和歌も拝見させてくださいました。

またこの萱野家には、それは素晴らしい様々な美術品が所狭しと所蔵されており本来ならば博物館や美術館にあるようなものを目の前で実際に見ることが出来ます。
大好きな鉄斎さんの額書をはじめ、風神雷神図はわたしの想像をはるかに超えた構図で驚きました。
次は京都観修寺です。21日にのみ様々な展示を見る事ができるとの事・・。
あぁ・・いつになることか。。