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2013/08/24

2013 8/24 歴史と人間 桂小五郎

国内にはいろんな観光地があるが、それぞれにその土地や人物でのエピソードを柱として成り立っている。とくに幕末には誰々がXXをした場所であったり、柱傷であったりそんなエピソードが盛りだくさん。ところが当時にはそんな建物はなかったり、事実を証明することができなかったりというように観光偽装があるようです。

さて今日は桂小五郎について。

萩城下の江戸屋横丁の和田家(医者)の家に生まれる。この家は藩士で20石。父は和田昌景(まさかげ)。彼は周南のよぶさかで生まれている。もともと和田家は毛利家につながり後妻の間に生まれたのが小五郎。(天保3年6月)前妻の長女の旦那に和田家を継がせていたので彼は次男として育てられた。
8歳の時に近所にすむ桂家の家が断絶しそうということで養子として迎えられる。この桂家は八組に属し非常に名門。末期養子という立場のために60石を減じられ90石となる。
この桂家も毛利(大江)と繋がっていることから非常に誇りをもっていたよう。
小五郎の書に時折<大江孝允>と書かれていることがある。孝允は所謂ところの諱。

10歳で漢学を学び始め明倫館へ通う。
14歳で藩主の前で詩をつくる。

この時に父に『日本外史』『日本政記』(いずれも頼山陽)を買ってもらい読破。皇室の衰えを感じたと同時に皇室とのつながりを感じたらしい。

1854年和田昌景が亡くなり遺産が入る。

このタイミングで明倫館が拡大し、小学校から大学までの機能を保有。

その3年後、斉藤新太郎がやってくる。彼は神道無念流の剣術化の息子で、剣術の修行のために萩へやってきて明倫館の腕利効きと試合を行うが、明倫館側はことごとく負けてしまう。
※この背景として、この時期は黒船騒ぎで空前の剣術ブーム!江戸での道場の宣伝として道場破りのようなスタイルがあったらしい。
この試合に明倫館側が負けたことで藩側が5人を選んで1年間、官費で江戸へ修行に出すことを決定。しかし小五郎は腕が無くて選考に漏れてしまった・・そこで彼は自費で3年間の修行の許可を藩よりもらうことになる。

江戸での小五郎は練兵館の塾頭となる。塾頭は剣の腕だけではだめで人間的な魅力等が必要であったそう。

嘉永6年の黒船騒ぎから、江戸湾品川に砲台を建築する(品川台場)ために採用された江川太郎左衛門のプランに沿うためにコネを探して小五郎は従者となりいろんなお手伝いをすることができた。

また、12月には藩主に対し「現在は兵力が不足している。地元農民を兵士として採用し外圧をはねつけては?」という意見書を出している。⇒騎兵隊?

さて、幕末には欠かせない人物の吉田松陰先生は3歳年上。18歳のときに明倫館で教授を行っている。誤解されているが桂小五郎は松下村塾塾生ではなく、松陰先生は小五郎を同志として接していた。松陰の密航に関する件も小五郎には相談をしていた。

この時期にプチャーチンの船が大破して帰国できないというトラブルから日本は伊豆に
造船所を作っている。

1855年4月萩へ帰国。翌月、藩へ造船製造技術を学ぶためへの許可を藩へ願い出ている。

***人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。***という手紙を松陰先生へ送っている。

安政5年8月10日26歳になり、お城へ初出仕。 大検使役で櫓方の管理。(米等の出納管理)
そこで松陰先生の死を知ることとなり伊藤俊介の従者となって遺体を受け小塚原へ埋葬をする。

その後、桜田門外の変がおこり、全国の大名による合議制の政治をおこなうべきと政治家を目指すこととなった。
小五郎は独自のネットワークを築き、丙申丸(長州藩の船)で水戸藩士と成破の約を交わす。(個人的な約束)

井伊直助亡き後の安藤久世政権は、いわゆる朝廷の権威を幕府へ取り込むことで力を強めることを目指すために和宮降嫁を行おうとしていた。これは対外的にも朝廷と幕府は一つであるというポーズであり、朝廷に対しては鎖国攘夷を行うことを約束していた。これは現代にもよくある手法で国内の怒りの矛先を他へ向けるために方策。これにより水戸と彦根の衝突を回避することができた。

ところが坂下門外の変で安藤が失脚。島津の1000人の兵の上京で、公家の力をつかって幕府を動かした事で毛利との対立が表面化。毛利は奉勅攘夷を藩のテーマとして掲げ楠公湊川の決意で臨むことを決める。特筆すべきは当時の太平記と現代の太平記は微妙にニュアンスが違っているが、精神力でしか勝てない相手と戦う時に菊水や奉勅、皇国等とあらわされることがある。

周布政之助は「攘は開なり 開は排なり」と言っている。そんな裏で長州ファイブが出現する。まさに不思議な藩である。


下記は松陰先生の言葉。
己れを以て人を責むることなく、一を以て百を廃することなく、長を取りて短捨て、心を察して跡を略らば、則ち天下いづくにか往くとして隣なからん。

2013/07/28

2013 07/27-28 ウッディパル余呉

先週末はちょっと奥琵琶湖へ避暑へ行ってまいりました。

大阪から車で2時間ちょいとはおもえないくらいで適度な山奥感のある余呉。

BBQはほんと久しぶりでみんなで夜遅くまで楽しみました。

お借りしたロッジは不思議なくらい虫一匹いない清潔そのもののの室内。

お手洗いもお風呂場もそこらのビジネスホテルよりキレイです。

1棟ごとにBBQスペースが目の前にあるのですごく便利!

これでお値段が 6人部屋で¥18,000ですからすごくお値打ちっ!
また秋口には行ってみたいものです。




2013/07/24

2013 7/24 講談「サムライの洋行」「袖解橋の御難」

下記の記事が一坂太郎先生のHPに掲載されていましたので転記いたします。
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○講談「サムライの洋行」「袖解橋の御難」

長州ファイブ密航留学150年記念。
若き日の井上馨らを主人公とした旭堂南左衛門氏の講談2本にそれぞれ一坂の解説が付きます。とくに元治元年9月の事件を扱った「袖解橋の御難」は井上本人の監修を経ているとされる貴重なものです。

日時 平成25年10月20日(日) 16:00~18:00(予定)
場所 萩の御厨高大(萩バスセンター裏手)
お問い合わせ・お申し込みは 萩市観光課(TEL0838-25-3139)まで
会費等未定。定員100人


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http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/jyouhou/jyouhou.html


開催が土曜日だったら行ったのに。。。残念  orz


2013/07/20

2013 7/20 歴史と人間  武市半平太

今日の講義の内容は武市半平太に関してでした。NHK大河の龍馬伝の時、武市半平太の役は大森南朋。 彼の印象がすごく強かっただけにとても興味ある内容でした。
小説の月形半平太は、福岡藩士の月形洗蔵とこの武市半平太をMIXした名前であったそうですがこの月形 洗蔵さんは、非常に立ち回りがうまいことから「武市半平太みたいなやつだ」という軽口があったらしく 実はすでに月形半平太と呼ばれていたという説があるそうです。

この土佐藩は特殊な成り立ちをしている藩で、関ヶ原の戦いの恩賞により西軍についた前藩主の長宗我部盛親から 山内一豊が藩主となったものの、一領具足と呼ばれた旧部下の反乱が多かったために 山内一豊は新しいルールを定めその定着を図った結果下記のような上士と下士という身分制度が出来上がった。

藩主(山内家)・・>上士(士格)<家老 - 中老 - 物頭 - 馬廻 - 小姓組 - 留守居役>・・>白札・・> 下士<郷士 - 用人 - 徒歩(かち) - 組外 - 足軽 - 庄屋>
文政12年9月27日(1829年10月24日)~慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)。号は瑞山で諱は小楯。 さて、武市は土佐国仁井田郷吹井村に生まれ、この生家はいまでも残存しており、観光ルートには入っていないものの その住居や暮らしを感じられるくらいだそう。もともとは郷士だったが祖父の働きで白札に昇格。 剣術に生きる為に12歳になると剣術家へ弟子入り。20日の時に相次いで父母を亡くし残された祖母の為に 妻の富子と結婚。 高知城下へ転居してさらに著名な剣術家の元でさらに修行を重ね、腕を上げてゆきます。
安政元年の大地震で家屋が倒壊したものの再建し道場を建設。非常に繁盛し門下生にはあの 中岡慎太郎や岡田以蔵等もいた。

安政3年8月になると藩より江戸で著名な桃井春蔵の道場へ剣術修行へ行く。当時著名な剣士である鏡心明智流の士学館(桃井春蔵)へ入門。頭角を現し塾頭となる。この時期は剣術がブーム。

ここで事件が勃発。塾生である山本琢磨(土佐藩)が酒に酔ったはずみで町人よりロシア製の金時計を奪いその時計を売却してしまった。
塾頭の武市は、なんとか江戸を脱出、北海道へ逃げた。そして腕を認められたことがきっかけとなって沢辺琢磨となる。そこでキリスト教の洗礼を受けて日本人初の司祭となり、御茶ノ水にあるニコライ大聖堂の建設運営に携わった。

安政6年。安政の大獄により、容堂公は蟄居、謹慎。

そして32歳。藩より西国筋形勢視察の任務をいただき数か月の間旅を行い、帰国した彼は平田 銕胤の著書の霊の真柱(たまのみはしら)を 持ってたそう。この旅により武市は何かを掴んで帰ってきたことを伺わせられる。

文政元年33歳。江戸行で吉田松陰先生の門下生の久坂玄随らと会い剣豪としてではなくどんどんと政治色を強めてゆく。この時に松陰先生の有名な掛け軸を見ているらしい。
長州藩や薩摩藩との交流から和宮降嫁に対し水戸が阻止するというや安藤信正の暗殺の話があるがこれを大反対!藩をあげて勤王となるべきという案を持ち、文久2年の春にはそれぞれの藩主を入京させて朝廷を背景として幕府に攘夷を迫るという密約を交わした。
そして有名な一藩勤王を目的とした土佐勤王党を結成。ところがこの原本は現存しておらず瑞山会にある写しのみとなっている。これは下士が中心で内容は容堂公の罪を晴らし、意思を受け継ぐというもの。

容堂公は藩の重役として、吉田東洋を参政。彼は土佐藩は関ヶ原の戦いによる徳川への恩があることを背景に開国・公武合体を説いていることから武市とは意見が会うことはかった。
藩の中でも吉田東洋の失脚をねらう山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五島内蔵助らにそそのかされ、ついに東洋暗殺を決意。那須信吾(その後の天誅組)・大石団蔵(英へ留学)・安岡嘉助(その後の天誅組)が暗殺をおこなった。

文久2年に島津久光の1000人の兵を連れた上洛
そして寺田屋事件が起こってしまう。

続いて6/28に参勤交代で土佐を出発。(いつもは200人ていどだが今回は2000人)
ところが姫路を通過するときに、なんとはしかが大流行!その結果大阪で1か月近く足止めとなった。さて・・京都へ行くか大阪へ行くか・・・容堂公より京都へ向かうように指示があった。(8/25)

8/1 他藩応接役となる。ちなみに薩摩藩の応接役は本田弥右衛門と藤井良節。
この時点ではまだ半平太は病気で臥せっていたところに田中新兵衛が面会にきている。

この後、田中新兵衛や岡田以蔵らによる京都で暗殺が横行。

天皇の権威を使うことで幕府さえも動かすことができる事がエスカレートし、青蓮院宮より命令をもらい土佐藩の改革を行うことを目指したものの容堂の怒りを買う・・そして8・18が勃発。その後土佐勤王党の解散・・38歳で切腹させられてしまった。
介錯人は妻・富子の実弟島村寿太郎と義理甥小笠原保馬。
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり 

介錯をした島村のお墓は天王寺の夕陽丘・齢延寺にあるそう。

今回のレポートは予定がいっぱいでUPが遅くなりました・・しかもまとまりがなくて・・・
(・_・;)ごめんなさい。

2013/07/13

2013 7/13 お食事会

もともとは懇意にしてくださっている旭堂南左衛門さんとランチをするという趣旨でしたが、ぜひともご紹介をさせていただきたい方がありまして、このチャンスを生かさねば!とご一緒していただきました。

先日、九度山の住民クラブ代表の阪井様より連絡があったINGEARのご代表の方で
熱くその思いをお聞かせいただき意気投合いたしました!

大阪はさまざまな歴史に培われてきた古の地。ところが現代の若者はまったく振り返ろうとせず単に新しいものを追いかけている有様。
行政も、古い物があるから新しいものがあるという理屈がわからずに、単に箱ものを積み重ね、予算ありきで小手先の対応を行っているように思える。

猛暑の中、西区のなにわ亭を舞台に3人であつ~く2時間近く語りあいました。

さて、この舞台となったなにわ亭。ぐるなびや食べログでもしっかりと宣伝されている、なんとなく昔懐かしい香りのする素敵な洋食屋さん。

http://tabelog.com/osaka/A2701/A270105/27011894/
http://www.e-shops.jp/local/nsh/photo/3813099115.html
http://www.osaka-nishiku.com/shop/shop_11/index.html
 

旭堂南左衛門さんのオススメのお店だけあって、その味は最高!
エビフライ+ステーキ・エビフライ+ハンバーグや自慢の一品をいくつかと
お昼間でしたが冷えたビールと泡盛をいただきました^^とってもおいしゅうございました(´∀`)

2013/07/06

2013 7/6 なわて落語会

開演は13時30分となっていますが、この数年間の混雑具合から、会場へは11時20分に到着。
すでに10人近くが並ばれていました。
この灼熱の灼熱の中に並ぶのは中々難儀なもので特に年配の方が多いのだから、事故が起こらないうちに早々に指定席にされるべきでしょう。
10分前に会場し、あっというまに客席700席は満席となりました。


桂そうば  手水まわし
3回目となるひろばさんの手水まわし。2008年10月の田辺寄席/2009年7月のめふ乃寄席、そして今回となります。ひょっとしたらTVの上方演芸ホールでもこのネタであったような記憶があります。しかしながら回数を重ねられるともうすっかりこなれた感がありいっぱい楽しませていただきました。

桂歌之助 片棒
2012年3月のおばやし亭で聞いた安定マクラ+安定ネタ、またそうばさん同様にテレビでも拝見した記憶があります。笑いところがはっきりしていてとっても楽しいネタです。次は違ったお噺を楽しんでみたいです。


桂ざこば 遊山船
マクラはいつもの孫ネタ。会場は大爆笑!危ういシーンもありましたがざこばさんのキャラで順に描いて行かれます。喜六と清八のキャラがざこばさんのキャラとかぶっている箇所があり目新しさがありました。


桂吉弥 質屋芝居
先日、違う演者さんでこのお話を楽しませていただいたところで、どうしても比較してしまいます。。
歌舞伎に知識の薄い方前提の話なので、下地のない方には面白さが伝わっているのか。
師直が塩治判官高定を鮒侍であるといびり倒し、つい短刀に手を掛けて切りつけてしまう。そんな主人の一大事のときに早野勘平はお軽と逢瀬中・・。そんなシーンの描き方もこのお話の楽しみ方でしょう。

桂南光 火焔太鼓
太鼓を買うのが大名ではなく鰻谷の住友さんということで、どうやって侍を出すのか・・・あぁなるほどっていう持って行き方で納得。残念だったのは最後のサゲまでいかずに途中で切ったこと。


今回の寄席の途中に何度も色んな方の携帯が鳴るハプニングが。
しかもうち一人は大阪のおばちゃんで、「もしもし・・・いま、寄席の最中やねn・・」って会話する人がいてびっくりです。

2013/07/04

2013 7/4 北御堂

先日、北御堂さんへ行ってきました。
北御堂さんは浄土真宗本願寺派本願寺津村別院で
ちなみに南御堂さんは浄土真宗大谷派 難波別院が正式な名称。

我が家の本家筋は本来は浄土宗ですが当家は訳あって曹洞宗です。
また、講談会でお世話になっている泰聖寺さんは浄土宗西山派。

 
現在、親鸞聖人750回御遠忌法要で工事をおこなっていましたので
すこしだけ迷路のような感じでした。本堂でお参りを済ませた後、下記のような
言葉の書かれている用紙を頂戴いたしました。

 
人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり        武者小路実篤

 

花は誰かに見られることを意識しているから美しく咲くわけではない。
花は周りに惑わされる事無く咲くから美しい。
という感じでしょうか。

 誰しも二面性のある生き方をしているとおもいます。
あの人には・・・あの場所では・・会社では・・自宅では・・自分の部屋では・・・
社会生活上では必要なことかもしれませんが
できるだけ自分を見失うことなく、冷静に、沈着に過ごして行きたいものです。

 

2013/06/30

2013 6/30 第26回柳谷観音・泰聖寺講談会 ~日越国交樹立40周年記念事業~

大阪の夏の始まりをしらせる愛染祭が開催。愛染坂を下った箇所にある泰聖寺にもお参りをいただきたいものです。
 
さて、今日は珍しいベトナム講談ということで作家のさんもお越しくださいました。
日本ではまったく知名度のないベトナムの国民文学的作品の金雲翹のお話で
幸せに暮らしていた王族の家庭に不幸が舞い込みヒロインが辛い目に会いながらも苦難を乗り越えて成長してゆくというストーリーでした。
 
「序章・王翠翹、金重との別れ」 旭堂 南斗
「廓からの脱出と束其心の恋」 旭堂 南舟
「鬼か蛇か!恐怖、宦姐の悋気」 旭堂 南青
「希望と絶望…そして旅の果て」 旭堂 南左衛門
 
 
なかなか興味深いお話でしたがとっつきにくい箇所もちらほら。
なにか下地があればより理解できたのではとおもいました。
 

 

 

 

2013/06/23

2013 6/23 第38回りっくぷち寄席〜おもしろ落語カタログ〜

毎回参加のお値打ち寄席。

広々としたホールでゆったりとした雰囲気のとっても感じの良いホールです。
今回も早めに到着しましたので1Fの図書館で色々とお勉強させていただきました。

 
林家染吉 みかん屋
前座さんでこの噺だからどうしても駆け足気味になっちゃうのか。それでも
染吉さんの惚けたような話術で会場はとっても良い雰囲気に仕上がりました。

 
桂竹丸 ハンカチ
2011/1のめふ乃寄席で竹丸さんのハンカチをお聞きしておりました。
たしか二丁拳銃の小堀さんの作で、面白い中にもしっとりとした夫婦の愛があるお話。
大好きなネタです。
 

林家染雀 質屋芝居
マクラはスーパームーンのお話からうまく仮名手本忠臣蔵の下地の無い方にはキツイかもしれないと、前フリをちゃんとされた染雀さん。
芝居物の描写が秀逸で、ついつい歌舞伎の三段目を見ているような空気になったとたんに
質屋のお客さんを出してくる!その対比が楽しめました。
 

笑福亭福笑 葬儀屋さん
落語でお腹が痛くなるくらい笑うってことがめっきりなくなっていた私でしたが、
今日はまぢでお腹が痛くなりましたww
代書屋を思い出させるような、葬儀屋さんと3人兄弟の大爆笑の会話がツボで
その後繰り広げられる奇想天外な風景!やっぱ笑福亭福笑さんってすごいです!

2013/06/18

2013 6/18 シトラスカッターのススメ!

シトラスカッターを導入!
なんでもっと早く買わなかったのかなって思えるくらい超便利!







これで私の柑橘系ライフがいっそう充実まちがいなし!
なんせ一口大に切れるんだから、もう分厚い皮むき作業はまぢ不要です!

2013/06/16

2013 6/16 大阪市内薩摩藩邸跡

昨日投稿の田中河内介さんにまつわる大阪市内にあった薩摩藩邸の場所を調べてみました。

1枚目は1863年の地図。天誅組の変や8.18の政変、馬韓戦争のころ。

 
 


2枚目は昭和18年の地図。






今の大阪には古き良き地名が皆無です。
本当にさみしい限りです。

2013/06/15

2013 6/15 歴史と人間 幕末維新編 田中河内介

志士という言葉はたしかに一坂先生が言われるように、勝者の言葉であり敗者に志士という言葉は使われていない。歴史の舞台に登場した者は皆、熱い思いをもっていろんな志を持っていたのに、歴史が二分してしまい、勝った方にのみ志士という称号を与えたのでしょうか。

田中河内介さんのお話が書かれている書籍は少なく中々知られていることにない方だがその背景は驚くべきものがある。

明治維新には二つの流れがある。
一つは外様大名雄藩を中心とした動き、そしてもう一つは在野の人たちを中心とした動きで、
今回は在野に相当する。

1815年(文化12年)~1863年(文久3年)
但馬の国出石郡神美村香住(豊岡市香住)の小森家(医者)の家出身。
この但馬には古くから、天皇家の末裔が移り住んだという話があることから、家庭境域が行き届いているという言い伝えがある。

元々は小森正造(和歌山出身)が移り住み教信(もりのぶ)という農家の青年だが熱心なので養子として医者を継がせ2代目となる。その子供が信古と河内介とのこと。
河内介はとても勉強熱心で21歳(天保六年 1835年 )、で京都へ行きざまざま著名な儒教家に入門。そしてついに念願の私塾を開く。
非常に評判が高いことから尊攘派公卿の中山大納言忠能(ただやす) 卿に仕えることとなる。
その後、家臣の田中近江守綏長(あやなが)家に入り婿となり、田中姓となる。
中山大納言忠能(ただのり)には忠愛(ただなる) という長男(後の右中将)・次女の慶子(よしこ)(後の明治天皇の母) 、そして忠光(ただみつ)(天誅組で有名)という次男が居た。

河内介には長男の左馬介(磋磨介)が誕生。非常に賢くて9歳で詩を作り出すくらい。


嘉永五年(ペリー来日の1年前)忠能の次女の慶子が妊娠する。彼女は孝明天皇の側室である。
妊娠を知った河内介は安産祈願で大阪本町にある座磨神社へ祈願に行っている。
そして無事誕生!祐宮睦仁が誕生。
通例では女官が養育するが河内介は女性を全員排除し、男性ばかりの環境で河内介自らが5歳になるまで養育を行う。

河内介は毛利と薩摩は特別視をしている。
元々天皇家は200石程度の生活基盤であるが、毛利、薩摩は多額の献金をしている。

さて、ペリー来航の条約勅許のドタバタ騒ぎのときには中山忠能はまったく動いていない。日和見的な立場であったのか。国家の一大事である時勢の対応に対し不満をもった河内介は辞表をだして仕えることを辞めてしまう。(安政4年8月)
※わざと辞めた恰好としていろんな密命を与えていたという説あり。
そして九州旅行へでかけている。
目的は真木和泉に会うこと。ところがタイミング悪く会えなかった。その後、島津斉彬に会うことができて武力での進軍を提案している。
そう簡単に動くわけはない。

そこで忠愛(ただなる)を通じて青蓮院宮に働きかけて斉彬に動くように働きかけた。うまくいくように見えたがなんと斉彬が急死してしまう。
そこで、親交があった大分県岡藩の小河一敏、薩摩の是枝柳右衛門(誠忠組)へ働きかける。
誠忠組は和宮降嫁反対・春嶽・慶喜の復権を望んでいる過激グループ。

鎮西義動・・九州には沢山の同志がおり、みんなで立ち上がることを目的に河内介の説得が始まる。そのために勅許をを得るか、青蓮院宮より指示をいただいた形にするか、もしくは大原三位と同行し薩摩をけしかけるか・色々と検討したがいずれもNG。結局は忠愛(ただなる)の手紙をもち各藩を廻り決起を促すことに落ち着く。
そして出発するその直前で意外な客がやってくる。
それは薩摩藩士柴山愛次郎/橋口壮助。彼らは安藤信正が死んだという情報(坂下門外の変)と島津久光が1000人の兵隊を連れて上京するという話をした。
実際は安藤信正は死んでいないし、上京の目的は別にある。
そして討幕のチャンスは今しかない!と吹き込んで行く。

すぐに河内介は小河一敏、真木和泉へ決起を促す手紙を送る。

その後、京都の薩摩屋敷に各藩より有志が集合するがあまりに目立つために京都ではなく
大阪の薩摩屋敷(二十八薩摩屋敷)へ集合させる。そして京へ移動。そこへ久光らが到着・・・征伐せよとの指令により寺田屋事件が起こる。。。。。

河内介らは助かったが翌日捕縛。
大阪天保山より船に乗せられて薩摩へ送られる途中神戸の垂水沖で息子の左馬介とともに惨殺、その亡骸を海に投げ込まれてしまい、その後小豆島に流れ着く。。

辞世は・・・ながらえてかわらぬ月を見るよりも 死して払わん世々の浮雲

法要が行われたニュースがありました。
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20110503000127



さて、その後、戊辰戦争が勃発。その真っ最中の1868年(慶応4年)3月26日に明治天皇の臨席で天保山沖で「軍艦叡覧(日本初の観艦式)」が行われている。その後、座磨神社へ参拝にいかれた明治天皇は宮司より、田中河内介の文章を目にする。。
側近に、『河内介』の所在を聞いたが誰も知るものがなかった。

それから数年後、明治天皇と内閣らが会食の最中に河内介の話が出た。
そこで、誰も話さない中で、当時堺県知事の小河一敏が、真相を話してしまうと同席していた
大久保らの顔が青ざめた。。そりゃそうだ。。
自分を5才まで養育してくれた河内介を薩摩藩がひそかに殺害しているのだから。
その後小河は閑職を転々とさせられたらしい。

2013/06/08

2013 6/8 大阪市立美術館 ボストン美術館展

このドタバタのような1週間がすぎて、朝寝を楽しみたかったのですが、朝4時30になると目覚めてしまいます。習慣とは本当に恐ろしいもので結局いつもどりの規則正しい生活を楽しんでします。

さて、ボストン美術館展がそろそろ終盤をむかえるので今日は久しぶりに大阪市立美術館へ。

途中はお定まりの幕末の崇高な国学者さん、佐久良東雄さんの碑へお参り。
この碑に気づく方はまず居ないくらいのはずれの場所にあります。

大阪市立美術館の正面に背を向けて右手の坂道の途中の茂みの中にあります。
ぜひ行かれた方はご確認ください。

花の嵐に散るを見て 
事しあらば我が大君の大み為 
人もかくこそちるべかりけり



さて、ボストン美術館ですが、さすがに大入り満員!
列をなしてぞろぞろと動くような流れで2時間!その素晴らしい仏教美術や日本画を堪能してきました。



なんといっても曾我蕭白(しょうはく)さんの雲龍図!この迫力に圧倒!
これが本当に水墨画?って思うくらいの筆使いにその構図と表情。

いちおうLINKです。↓

http://www.boston-nippon.jp/highlight/05.html

これが生で見れちゃうんですからお値打ちですww

もちろん伊藤若冲さんの龍虎屏風図もすごい迫力でした。

さて、帰りは久しぶりの慶沢園へ寄って。。
あれれ・・なんとも奇妙な風景!ハルカスがにょきっと顔をだしています。


これも時代の流れなのでしょうねー。。

2013 6/8 北神ぎょうざ

天王寺でお昼ご飯!

あまりに久しぶりなのですっかり様変わりしている阿倍野界隈。


で、入ったお店は北神ぎょうざのお店。

餃子丼 500円なり。

熱々の餃子に若鶏の蒸し焼きがのっていておいしいタレがかかっています。
でもこのお店の餃子のタレは特性のお味噌+食べるラー油+醤油ベースのタレのミックスです。
これをかけて食べるともっちゃ美味です。