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2010/12/18

2010 12/18 教科書に書かれない幕末史 江戸開城と彰義隊

戊辰戦争が始まった慶応4年1月3日。
鳥羽伏見で開戦。錦の御旗が翻り官軍の勝利に追い討ちをかけることとなった7日には徳川慶喜追討令が発せられた。
しかし慶喜さんはその前日には天保山沖合いより江戸へ逃げ帰る。
そのころ京都から各街道を22諸藩が慶喜追討を目的として進軍している。
さて、開戦か恭順か・・。

慶喜さん恭順を選んだ。1月12日には上野寛永寺の大慈院へ行き自ら謹慎生活を送った。
(※寛永寺は徳川の菩提寺で、皇族が歴代の住職を勤める天台宗の本山で当時は「輪王寺宮公現」。東叡山の号印をもつ)

ところがその思いは届かなかった。

1月12日には一ツ橋家に縁をもつ者17名が慶喜さんの復権や助命に関する話し合いを雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」でおこなった。
次に2月17日には30人程度で円応寺で第2回目の会合。2月21日には67名に。
そして23日には130人が浅草の東本願寺に集まり「彰義隊」と命名。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎と決まった。
名目は慶喜さんの警備と江戸の治安維持。そして隊員は膨れ上がり3000人・・・4月3日には江戸入りし拠点を寛永寺とした。

こんな背景の中で、何度かの会談で、ついに旧幕府は勝海舟に仲介を願い官軍の参謀の西郷隆盛との会談が成立し、4月4日についに江戸城が無血開城が実現。そして慶喜さんは開城の直前の4月1日には水戸へ行かれたために彰義隊は慶喜さんの護衛という目的がなくなった。
そこで今度は輪王寺門跡公現親王の警護に名目をかえさらに秩序は最低な江戸の町の空気は最悪。
不穏で、一触即発の江戸の町の状態を憂いた勝海舟は彰義隊の解散を促したが実現せずついに決戦の時を迎えてしまった。

官軍と彰義隊の衝突がおこれば江戸の町は火の海間違いなし。

官軍は慶応4年5月14日には輪王寺門跡公現親王に対し、心得違之徒とまで書かれた彰義隊攻撃の為に立ち退き令をおくるとともに、江戸の市民に対し脱走之輩を攻撃するのでかくまわないように書かれたビラをまいた。
官軍を指揮するのは大村益次郎さん。【海江田信義】が提唱する夜間攻撃に対し、「我々は官軍であるのだから白昼堂々と戦う」とのことで5月15日に開戦、寛永寺に籠もる彰義隊を攻撃した。官軍の兵器の佐賀藩が保有している3000mの射程距離を誇るアームストロング砲で攻撃しわずか1日で彰義隊は敗走することとなった。

と、ここまでが表の歴史。

色々と不思議な話があるもので、最大の謎は慶喜さんの予測できない行動だろう。
慶喜さんは大坂から逃げ帰り江戸城へ入ったものの自らが謹慎を選んでいる。
それは江戸の町を焼くのが偲びなかったのか、水戸の出身だけあって朝敵となるのを恐れたのか、鳥羽伏見で沢山の旧幕府軍のために戦った御霊がそうさせたのか。横浜に造られている居留地に住む外国人を代表してパークスが進言したともいわれている。

また、上野戦争の決めてとなったように言われているアームストロング砲は本当に威力を発揮したのか?これも疑問視されている。また資料によると戦いの真っ最中に彰義隊を応援するフリをして背面攻撃した集団があったらしいが、これが本当だとすると、昼間に正々堂々と攻撃を主張した正義を誇る大村益次郎さんはあまりに卑怯・・。

さて、江戸っ子はどんな気持ちだったのだろう。慶喜さんがようやく上方から帰ってきたのもつかの間で、薩摩や長州の官軍がドカドカと乗り込んできて我が物顔に将軍さんの護衛の軍隊であった彰義隊を攻撃する。
ところが、そんな江戸っ子も敗戦を期した彰義隊隊員を見つけ出すと殺害したということも起こっておいた。
その名残が松石隊の首塚、下谷の電電公社、儀石門塚、和田の十三塚など・・。
そして2年後の1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが公園にすることを提唱し数年後にこの上野山は上野公園(上野恩賜公園)となった。そして、そこには西郷さんの銅像が建立(序幕式は明治31年12月18日)
多数の旧幕府軍の兵隊が眠っている上野山にお尻を向けている。

※一坂先生の講義に私が所感等を加えています。